映画

2015年9月 6日 (日)

『マッドマックス・怒りのデスロード』

ジョージ・ミラーもいい加減歳だし、このところ繰り返されるハリウッド制続編というかリメイクというか、とにかく期待はずれが多かったので見る気がなかったのだが、知り合いのプロデューサーが二度の打ち合わせの時に、二度とも「良かった!」というので見てきました!

 

『マッドマックス・怒りのデスロード』

 

いやあ、凄かったねえ!    
ジョージ・ミラーは相変わらずの馬鹿力演出で、「やはり肉食人種には勝てない!」と昔風の感想を久しぶりに感じた二時間。      
「ハリウッドどオーストラリアは違うんじゃい!」と監督の雄叫びが聞こえて来そうな無慈悲な展開。    
話は実にシンプルで、楽園を求めて旅に出て、しかしそれは元の場所にあると気づいて戻ってくる。それだけの事だが。      
「青い鳥」伝説か「アルケミスト」か、この手の話はうまくまとまる。

 

全体を包む世界観、それを視覚化する美術、アクション、特撮。すべてが同じ方向を目指して、ひしめき合っている。次から次へ出てくるキャラクターもユニークだし、あまり説明をしないのもいい。

 

唯一の欠点はマッドマックスを演じた凡庸な役者。主役が欠点というのは大問題だが、それを補って余りあるのがシャーリーズ・セロン。彼女を主役に続編の話も出ているそうで、さもありなん。

 

個人的に好きだったのはエレキギターを弾きながら走る一団。後部にリズム隊を乗せ、戦闘の間、何故か音楽を鳴らし続ける。    
昔の軍隊には軍楽隊がいたが、あれの名残というか、アレンジ・バージョンなのだろうか?      
しかしあんな発想、たとえ思いついたとしても、誰か(たとえばプロデューサー)に却下されるよ普通。

 

とにかく久しぶりに「アクション映画」を見たって感じです

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2015年9月 3日 (木)

「毛皮のビーナス」

マゾッホ原作の「毛皮のビーナス」の舞台化の為に女優をオーディションしている脚本家。
そけへ遅刻して現れた女優と脚本家が繰り広げるミステリアスな愛憎劇。

 

登場人物は二人。    
私も二人芝居を何本か書いているので、実に興味深く見た。      
作劇も素晴らしいが、何よりも二人の役者がいい。特に女優役のエマニュエル・セニエ。ポランスキーの奥さんで、もういい年なのだが、惜しげもなくその身体を見せ、怪演と言ってもいいような、凄い芝居。      
対する男優は、私はあまり知らなかったが、ポランスキーそっくり。    
この二人が、他に誰も居ない劇場で、火花を散らす。

 

ロマン・ポランスキーは80を過ぎても大したもんである。

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2015年8月20日 (木)

『ソルジャー・ブルー』&『バニシング・ポイント』

70年代ニューシネマ二本立てである。
どちらもテレビで見た後、名画座で見て、DVDでも見直した作品。

「バニシング・ポイント」は何度も買い直している。マニアの多い作品で、いろんなバージョンが出たのだ。今回はブルーレイを買って見た。
正直、B級だと思いつつ、代えがたい魅力がある。
究極のカーチェイス物と言ってもいい。走る理由が明確に提示されていないからだ。それでも痛いほど走る理由が分かる。そんな作品だ。
この作品で初めてバニシング・ポイントという言葉を覚えた。日本語に訳せば「消失点」か。そこに向かって走るというのは、決してそこにはたどり着けないということも含めて、哲学的な何かを感じる。それがこの映画の魅力だ。

「ソルジャー・ブルー」は久しぶりに見た。
最初にシャイアンが騎兵隊を襲い、生き残った兵士と女性が二人で旅をする。ロードムービーの構成だ。最後、逆に騎兵隊がシャイアンを襲い、悪名高い虐殺シーンがある。女子供の首をはね、手足をバラバラにして、それを手に笑う兵隊たち。(マンガ「デビルマン」のクライマックスはこれの影響を受けているに違いない)
実際に起きた出来事だそうだ。
途中のロードムービーの件が思っていたよりも長かったが、映像はとても美しかった。アメリカ大陸の美しさを描くことによって、最後の惨劇を際立たせる意図だろうか。
主題歌のレコードを買って、よく聞いていた記憶がある。「いちご白書」の主題歌「サークルゲーム」のB面だった。

 

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2015年7月13日 (月)

死体と旅する男達

『メルキアス・エストラーダの3度目の埋葬』を見る。

見るのはこれで二回目だ。この作品はトミー・リー・ジョーンズの初監督作品。初めてとは思えない、落ち着いた、堂々とした演出である。

メキシコ国境近くの農場で働いている主人公は、不法滞在のメキシコ人、メルキアス・エストラーダと友人になる。ある日、ちょっとした間違いが起き、国境警備隊の若い男にエストラーダは射殺される。死体はすぐに埋葬され、事件は闇に葬られそうになる。
主人公は犯人の若い警備隊員を誘拐し、エストラーダの死体を掘り起こさせ、メキシコにある彼の故郷へ向かう。
「自分が死んだら、故郷に埋葬してほしい」という友の願いを実行するため。

男二人と死体が旅をするという話である。
その間に様々な出来事があり、自分勝手だった若い男 は、変わって行く。一種の成長物語でもある。
トミー・リー・ジョーンズは頑固な古い男を好演している。
その存在感だけで、この映画は成功している。

見ていて思い出したのはペキンパーの『ガルシアの首』だ。この映画でも主人公のウォーレン・オーツが死体と旅をする。(この場合、首だけだが)
途中で死体が腐りはじめて、虫がわき、主人公が悪戦苦闘する様は、どこか似ている。最後にたどり着く場所もメキシコだ。

アメリカ映画に登場するメキシコは、貧しく野蛮だが、アメリカが失ってしまった何かを残している場所である。
命がけで国境を渡り、アメリカに入り込もうとするメキシコ人は後を絶たない。一方で、アメリカに失望し、居場所を失った男達は、メキシコを目指す。
では、アメリカが失ったものとは何なのか?

自由か? 誇りか?

 

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2015年6月16日 (火)

ニンフォマニアック

ラース・フォン・トリアーの映画ってのは、なんか見てまうのだ。そんなに好きというわけではないのだが、何をやるか判らないという刺激がある。そういう意味ではキューブリックに近い。勿論スタイルはまるで違うが、次の作品が観たくなるという点では、現役トップかもしれない。

「ニンフォマニアック」も面白かった。DVD二枚に渡る長時間の作品だが飽きる事もなく観てしまった。シャルロット・ケンズブールが前作に引き続き出ている。この人、美人でもないし、特に演技派という訳でもないのだが、様々な監督に重用されている。何故だろう。両親譲りのアーティスティックな雰囲気のせいかな?

この作品では彼女の若い頃を演じる新人さんが印象的だ。かなり大胆なセックスシーンを演じている。といっても、かなりの部分吹き替えと特殊メイクと特撮を屈指しているらしい。まるで本人が本番をやっているように見えるのが凄い。特撮もこういう使い方があるという訳だ。

全体的に今までのラース・フォン・トリアー作品よりも明るく、笑える部分も多い。これから先、どう作風が変化していくのか……。

次の作品が楽しみである。

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2014年9月12日 (金)

『アンゲロプロス』の日々

テオ・アンゲロプロスの映画を集中的に見た。

『旅芸人の記録』『狩人』『エレニの旅』『エレニの帰郷』『ユリシーズの瞳』『永遠と一日』『こうのとり、たちすさんで』などである。
劇場で見た物もあるが初見の物も多い。
どれも素晴らしい。
そのストーリーとテーマを象徴するような映像表現は、何処を取ってもオリジナリティを感じるし、『映画だなあ』という瞬間に満ちている。
未完の作品を残したまま亡くなってしまったのは本当に残念だが、これだけの傑作を生み出した映画監督と、同時代に生きられた幸運に感謝するしかない。
 
他人に勧めるのは難しい。
『映画鑑賞が趣味』という人も、その殆どはアメリカ製エンターテインメントのファンであり、ヨーロッパの『芸術映画』を嬉々として語る人は少なくなった気がする。
 
アンゲロプロスの映画は、それなりに制作費もかかっているように見える。
それはつまり出資者もいて、なおかつ商売として成り立っているという事だ。
そこが不思議でならない。
ベルイマンの映画を見たときにも、同じ事を感じる。
こんな映画に金をだすのは、どんな人なんだろう?
これは商売として成立しているのだろうか?
 
そんな事を感じるのは、日本の商業主義に毒されているからだろうか。
ヨーロッパにおいて映画はまだ『芸術』なのかもしれない。
 
チェコのカルロビバリ映画祭に参加したとき、それを肌身で感じた。
難解な芸術映画のチケットを取るために、若い映画ファンが長い列を作っていた。
日本では失われた光景だ。
 
一本でいい。
彼のように映画を作る事が出来たら……。
そんな風に思いながら、私は再び彼の映画を見るだろう。

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2014年2月 3日 (月)

男の子の映画 『セント・オブ・ウーマン』

男の子は受難の時代である。

勿論、いつの時代にも困難はある。
男女に限らず、生きていくのは大変だ。
しかし、最近まわりの連中、特に若い人たちを見ていると、女の子は比較的元気だが、男の子は戸惑っている。
「男らしさ」という物が、何だか分かりづらい時代なのだ。
 
だからという訳ではないのだが、最近、男の子を主人公とした映画を続けて観た。
どれも以前からの私のお気に入りで、劇場でもビデオでもDVDでも観ている。
久しぶりに観ると、以前とは少し違った感想を持つこともある。
 
『セント・オブ・ウーマン』は大好きな映画だ。
アル・パチーノがついにオスカーを取った作品で、彼も素晴らしいが、映画も素晴らしい。
監督はマーティン・ブレスト。
他には『ビバリーヒルズコップ』や『ミッドナイトラン』などを撮っている。ラジー賞を大量に獲得した『ジーリ』なんて作品も撮っているが、これは見ていない。
 
『セント・オブ・ウーマン』の演出は素晴らしい。
凝ったカメラワークや編集はなく、オーソドックスな撮り方だが、映像は美しく、何より出て来る役者の演技が全て素晴らしい。
冒頭、クリス・オドネル演じる高校生が友人の悪戯を目撃し、その名前を校長に言わなければ、退学処分になるという立場におかれる。
一方、アル・パチーノは盲目の退役軍人で、感謝祭の間にニューヨークに行き、ある計画を実行しようとする。 
クリス・オドネルはアルバイトで週末の間だけ彼のケアをする事になり、二人でニューヨークを旅する、というのが大まかなストーリーだ。
 
旅をしながら二人の関係が反撥や共感を繰り返し、次第に親密になっていく。
この手の作品の約束通りだが、次々に出て来るエピソードの人物造形が素晴らしい。
アル・パチーノの兄弟とその家族、レストランで出会いタンゴを踊る若い女性、フェラーリのディーラーに勤める初老の男、旅の間リムジンを運転するドライバー、最後に登場する高校の女教師。
全てが完璧なキャスティングで、皆、名演を見せる。
特にアル・パチーノとタンゴを踊ったガブリエル・アンウォーは、この作品で一躍注目の的になった。
クリス・オドネルの同級生役で若きフィリップ・シーモア・ホフマンが出ており、若いながらにも独特のくせ者演技を披露している。
アル・パチーノ演ずる「大佐」は、輝かしい軍歴を誇るのだが、手榴弾の事故で失明していらい、絶望の中に生きている。
彼の旅の目的は、兄弟や家族に会い、いい女を抱き、フェラーリに乗り、要するにやり残した事をやった後、自殺するという事だ。
それに気づいたクリス・オドネルが必死になって彼の自殺を止めるシーンが一つの山場だ。
このシーンは二人とも素晴らしい。
 
自殺を思いとどまった大佐は、クリス・オドネルを高校まで送り届ける。
彼は校長に対する悪戯事件の目撃者として、裁判のような公聴会にかけられている。
一旦、去ったかに見えた大佐が、公聴会の場に現れてからが、本当のクライマックスだ。
ここで大佐はクリス・オドネルを弁護する大演説を行う。
このモノローグが実に素晴らしい。
アル・パチーノはアクターズスタジオ系の俳優だが、同時にシェークスピア俳優でもある。
大向こうを唸らせるようなモノローグは、彼の真骨頂だ。
このモノローグでオスカーを取ったと言っても過言ではない。それくらい素晴らしい!
ユーチューブなどには、この部分だけを抜き出した映像が上がっている。このモノローグのファンが世界中にいると言う証拠だろう。
本当なら全てを引用したいくらいだが、長くなるのでやめておく。
今回久しぶりに見直して特に印象に残ったのは、以下の件だ。
 
『……私も、これまで何度も人生の分岐点に差し掛かった事がある。その時、どちらの道をとるべきか、私はすぐに分った。しかし私はそれを選ばなかった。何故なら、そちらの道はとても困難だからだ……』
この後、友人を売るのを潔しとせずに沈黙を続けるクリス・オドネルを大佐は讃えるのだ。
今回改めて強く感じたのは、この物語は実はアル・パチーノ演じる大佐の成長物語であるという事だ。
年長者と少年が旅をする話であれば、少年が年長者から何かを学んで大人になるのだと普通は思う。しかし、年齢は重ねていてもの成長していない大人は多い。
大人になる過程で、何か大事なものを失ってしまったという事もよくあることだ。
そして、誰かが誰かに影響を与えると言う事は、決して一方的な行為ではなく、その反作用として自らも影響を受けることも多い、という事をこの映画は語っている。
大佐は少年を救ったが、少年もまた大佐を救ったのだ。
 
さて……。
いずれにせよ男の子にとって重要なのは、自分の足で立つことである。
その為の通過儀礼は、ときに辛く厳しい。しかし、それを超えなければ本当の人生を手に入れる事は出来ない。
そんな普遍的な教訓を、エンターテインメントとして伝えてくれるのだから、映画ってのは実に素晴らしいと改めて思った次第である。
 
追記。
これを書き終えた後、フィリップ・シーモア・ホフマンの訃報を知った。
素晴らしい俳優だったので、実に残念だ。
ご冥福をお祈りします。
 
 
 
 
 
 

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2014年1月10日 (金)

子供たちは何処へ行ったのか?

『かぐや姫の物語』を見た。
正直見ている最中は退屈した所もあるが、その完成度の高さと新しい技法への挑戦、そして現代の女性の生き方にも通じる普遍性など、素晴らしい作品だと感じた。
巷では『風立ちぬ』と比べてどっちがいいとか、これに刺激されて宮崎さんは次の作品を撮るとか、様々な意見が飛び交っている。
いずれにせよ日本を代表するアニメーション作家の最後の作品になるかもしれない傑作が二本そろった今年は記念するべき年だ、などと書くつもりだった……。
しかし……何だろう、この違和感は……。
 
『風立ちぬ』は本当に面白かったので、結果的に三回も見てしまった。
『かぐや姫』は一回しか見ていないが、そのどちらにも感じた妙な気分の正体がなんなのか……しばらく分らなかった。
雑誌やネットに載っている双方の批評や感想を読み、好き嫌いはあるにせよ、この二本の作品を多くの人が喜んでいる……素晴らしい事だ……そう思っていた。
しかし……先日、その違和感の正体にやっと気づいた。
 
『子供たちはどこに行ったのだろう……』
 
五年前、『崖の上のポニョ』を劇場で見た時、ポニョがスクリーンに現れた瞬間に「あ、ポニョだ!」という子供の声が聞こえた。
その後も、「わあ、可愛い」とか「ポニョ大丈夫?」とか、映画に素直に反応する子供の声があちこちから聞こえて来た。上映が終わると「面白かった!」「ポニョ可愛かったね!」と言う声とともに、「ポニョ、ポニョ、ポニョ、さかなの子~」という例の主題歌を唄いながら劇場を去る子供たちの姿を沢山見かけた。
『となりのトトロ』を見た時にも、同じような光景を見た記憶がある。
しかし今回、どちらの作品にも子供の姿はなかった。
『風立ちぬ』には、それでも何人か子供がいたような気がする。
私の知人も子供を連れて見に行ったそうだ。しかしすぐに退屈してしまい、「別の映画のほうが良かった」と不評であったらしい。
おそらく『かぐや姫』は見に行かないだろう。
 
アニメーションが子供だけの物でなくなってから久しい。
ロボットものも、ヒーローものも、美少女ものも、いつの間にかメインの客は大人になってしまった。
20代30代へたすると50代の観客がアニメ映画の初日に列を作る。
深夜の時間帯に放送されるアニメも多く、最初から子供を観客に想定していない。
その傾向に文句をつける気はない。
「大人向けアニメ」というのがあっても構わないし、そこに大きなマーケットがあるのも知っている。
「木を植えた男」に代表されるアート系のアニメという物も古くから存在している。
しかし、そんな世の中の傾向とは別に、子供向けのアニメを作り続けて来たのがスタジオジブリであり、宮崎駿であった筈だ。
 
『風立ちぬ』の映像化に宮崎さんは当初反対だったそうだ。
『アニメ映画は子供のためにある』というのが彼の信条であり、子供向けの他の企画も用意していたらしい。しかしプロデューサーの鈴木さんが宮崎さんを口説いて、『風立ちぬ』は映画化されたそうだ。
「宮崎駿は戦争について総括するべきだ」というのがその理由だ。
仰るとおりである。さすがに鈴木プロデューサーは良いことを言うな、と思っていた。
しかし、本当にそれで良かったのだろうか……。
宮崎監督の引退作としてはそれもいいかもしれない。しかし彼が「大人向け」のアニメを作ってしまったら、「子供のためのアニメ」を作る人はいなくなってしまうのではないか……。
『かぐや姫』の大衆を拒絶するある種の高尚さに触れた今、そんな思いがさらに強くなっている。
 
前からうすうす感じていた事なのだが、鈴木プロデューサーや高畑監督は、実は「アニメ」がそれほど好きじゃないんじゃないだろうか?
本当は「実写」の映画を作りたいんじゃないだろうか?
宮崎監督にはそれを感じたことはない。
彼は根っからアニメもしくはマンガの人だと思う。何故なら彼は自分で画を描くから……。
 
『風立ちぬ』で宮崎監督の映画監督のキャリアは終わる。
その事に納得をしていた。『風立ちぬ』はそれにふさわしい作品だと思っていた。
しかし今は痛切に思う。
『もう一本撮ってほしい!』
それは『風立ちぬ』の時に流れしまった別企画なのか、それともインタビューなどで何度も語っていた『毛虫のボロ』という企画なのか……個人的にはこの毛虫の話が見てみたいが……とにかく子供向けにもう一本だけ作って欲しい。
そして劇場を子供たちの歓声で一杯にして欲しい。
 
「子供向けのアニメを作っていた二人のおじさんは、子供たちを見捨てて、月に帰ってしまいました……」
スタジオジブリという童話が、そんな終わりを迎えてほしくはない。
そんな風に今は思っています。
 
 
 

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2013年12月13日 (金)

王様と道化

『ポニョ』が好きだと言うと、「え~っ?」と言われることが多い。

 
『ポニョ』とは宮崎監督の『崖の上のポニョ』の事だ。
大ヒットしたわりには宮崎作品の中では人気がないようだ。
「あなたの好きな宮崎アニメ」などというアンケートでも大抵最下位近くに位置している。
他人がどう評価しようとも、私は劇場公開されているときに三回も見てしまった。
勿論、 DVDも買ったし、このたびついにブルーレイ・スペシャルエディションなるものを手に入れた。
 
これには『ポニョはこうして生まれた』と題されたメイキング・ドキュメンタリーが一緒についている。
DVDでは別に発売されていたもので、なんと12時間30分におよぶ長大な作品だ。
 
宮崎監督の人と作品に関しては、ここ数年何かある度にドキュメンタリーが放送されている。『ポニョ』の時にも同様に放送された。それらはいつも見応えのある番組なのだが、このDVDは放送には使われなかった映像も沢山追加した上、様々な理由で全く別の作品になっている。
これを私はネットを通じて買ったが、ネット内の書き込みによると、このメイキング・ビデオの評価は極端な賛否に別れている。
非難されている場合、その理由の殆どはディレクターに関するものだ。普通メイキング・ビデオのディレクターがここまで叩かれる事はない。
私は俄然興味をかき立てられた。
 
1日に約1時間分を見ることにして、最後まで見るのに2週間近くかかった。
で、結論から言うと、実に面白かった!
今まで見たメイキングの中で三本の指に入る面白さだった。
 
話題のディレクターは「入社6年目」とナレーションで言っていたから、おそらく二十代の後半だろう。
今まで放送されたジブリ関連のテレビ番組は、プロのナレーターと洗練された編集によって見応えのある物になっていたが、この作品は全編がディレクター自身のナレーションで進行する。
お世辞にも上手いナレーションでない。編集も時系列にそって日記の様に進んで行くだけで、あまり工夫はない。
 
『取材に当たっては、取材者としてではなく、宮崎監督の話し相手として接すること』
『カメラマンは呼ばず、自分でカメラを回す事』
 
そんな条件が最初に鈴木プロデューサーから与えられたそうだ。
ディレクターはその指示に忠実なのか、とにかく宮崎監督の日常をホームビデオのように記録してゆく。
最初のころは『ポニョ』のかけらも見えず、お手製の地球儀に色を塗ったり、依頼された挿絵を描いたり、車に取り付けたカメラでスタジオ周辺の映像を撮ったり、そんな事をしている宮崎監督を延々と写す。
それでも、スタジオの隣に保育園を作る打ち合わせや、別の企画が原作者から断られる様子などを記録しつつ、次第にポニョの構想が浮かび上がって来る。
監督は主要スタッフを二人呼び、企画準備室を作る。
作画監督の娘の写真を見て、「これ、まさしくポニョだよ」などと喜んだり、『カーズ』のプロモーションで来日したジョン・ラセターにイメージボードを見せる場面などもある。
やがて構想は具体的に形となって来るが、それとともに監督の精神は緊張し始め、ディレクターとの会話もとげとげしい物に変化する。
 
このディレクター、監督に対する質問が素直というか純粋というか……宮崎監督を呆れさせたり、イライラさせたりすることが多い。最初のうちは、それでも子供の質問に答える様に丁寧に対応しているのだが、お互いに相手に慣れてくると遠慮がなくなる。
絵コンテがある程度進行し、作画スタッフが編成され、作画開始となると、映画作りはいよいよ後戻りが出来ない。
監督も精神が高揚し、緊張し、そしてそしてついに爆発する。
 
『人が孤独になりたがっている時に、それをどうやって映像化するか、それを考えるのが仕事だろう!』
『ただカメラを向ければいいってもんじゃないんだ!』
『少しは自分で考えろ!』
『俺は不機嫌でいたいんだ! 本来、そういう人間なんだ!』
 
宮崎監督の怒りを買ってしまったディレクターは、これ以上の密着するのは不可能と判断し、取材を中止にする。
ここまでが前半である。
 
しばらくして、彼は番組のパーソナリティーと共に再びスタジオを訪れる。今度はただ同行ディレクターとして無難に仕事を終える、筈だった。
帰りがけに鈴木プロデューサーから宮崎監督のメッセージが届けられる。
『一度怒ったら、二度と近寄らなくなった。そんな事じゃこっちが困る。怒られたら、さらに30センチ近寄るくらいじゃなきゃダメなんじゃないのか?』
このメッセージを受けて、再び取材が始まる。
この後半部分も5時間以上あって見応え充分なのだが、やはり宮崎監督が怒り出す前半部分が圧倒的に面白い。
 
全編を通じて思い出したのは、黒澤明監督の『乱』における王と道化のやりとりだ。
(もちろん『乱』の原作である『リア王』にも王と道化のやりとりはある。しかし、私には宮崎監督と『乱』の一文字景虎つまり黒澤明監督がダブって見えてしまった)
 
王様は何度も道化を怒鳴りつける。道化はすぐに遠くへ逃げるが、しばらくすると戻って来る。そして再び怒鳴られる。そんな事の連続である。
このドキュメンタリーでもディレクターは何度も呆れられ、遠ざけられるが、再び舞い戻ってきてカメラを回し続ける。
宮崎監督はカメラの前で何度も不機嫌になるが、彼がいなくなると『何でいないんだ?』と呼び戻したりする。
それはまさしく『王様と道化』の関係だ。
そして、この長大なメイキング・ビデオを見終わって感じる事それは……王様はいつも孤独だという事……そして道化を必要としているという事……。
 
『ポニョ』はその後もさまざまなドラマを引きずりながら、ついに完成する。
このメイキングのディレクターは見事に道化の役を務めたという事であろうか?
 
 
 
 

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2013年11月 2日 (土)

宮崎走り!

宮崎駿監督の引退を受けて何か書こうと思っていたんだが、いろいろと読んだり見たりしているうちに、なんだか時間が過ぎてしまった。
彼の引退に関しては様々な人がいろいろなコメントを出している。
素直に受取る人もいれば、斜に構えて見ている人もいる。いつもそうなのだが、学者や評論家の言う事は、どうもピンと来ない。
「優れたクリエイターは自己分析に長けている」と信じているので、改めて最後の作品と言われている『風立ちぬ』を見た。そして引退記者会見も見直した。するとやはり宮崎さん本人が、実に明確に自己分析をしている事に気づいた。
 
『僕は結局、アニメーターなんですね……』
引退記者会見で彼は何度かその言葉を吐いている。
その言葉の意味するところは何なんだろう?
 
『出発点』というタイトルの本があって、彼が様々な所で書いたものや発言した事が本になっている。
その中に「走りの基本形」という文章があって、こんな事を書いている。
『一秒24コマを4歩で走る、一歩6コマの走りが、リズムがあって、一番無難だと思っている』
以下、一歩を6コマで描くか、一歩4コマで描くか、一歩5コマもしくは7コマのように奇数の走りはどうなるか、様々な考察が書かれている。
アニメーションに詳しくない私にはさっぱり分らないが、彼が生き生きとした「走り」を求めて試行錯誤しているのはよく分る。
この文章は次のように締めくくられている。
『……とにかく素晴らしい走り、生きているということ、生命が躍動している……そんな走りを画面いっぱいに展開できたら、どんなに愉快だろうとしみじみ思う。そして、そんな走りを要求される作品に出会いたいと心から願っている……』
 
もののけ姫はこうして作られた』というメイキングドキュメンタリーの中に、スタッフのアニメーターが描いてきた原画を宮崎さんが修正している場面が何度も出て来る。
印象的だったのは主人公アシタカが森の中を走る場面で、アシタカは木の枝の中に身体ごと突っ込んで行くのだが、上がってきた原画では枝に突っ込む直前、アシタカが目をつぶっている。それは「枝によって目が傷つくのを恐れた」という描写なのだろうが、それを見た宮崎監督は修正をしながらしだいに怒りがこみ上げて来て、スタッフを罵倒し始める。
『こういう所にそいつの人間性が現れるんだ……アニメーターなんて苦労の多い仕事なんだ、普段の鬱屈をこういう仕事を通じて晴らせない奴はろくな仕事をしない……』
そんな事をブツブツと言いながら彼が描き直したアシタカは、両腕で顔面をガードしながらもその腕の間からキッと見開いた目をして、前のめりに枝の中に突っ込んで行った。
 
この『……こうして作られた』シリーズは、その後『崖の上のポニョ』の時にも作られるのだが、その中でも、とにかく彼は画を描き、原画を修正し、再び描き直し、さらに描き足し、ひたすら描いている。
自身が言うように、つくづくアニメーターなのだと思う。
そして自身が描く画とその動きの中に、その映画のテーマもストーリーも内包しているのだ。
 
例えば優れたピアニストが、既成の楽曲だけでは満足出来なくなってしまい、自分の腕に見合った曲を作るようになる。
彼もそんな風にオリジナルアニメーション映画を作り始めたのかもしれない。
ピアニストはやがて自分の指が思うように動かなくなる。
そして作曲を止める。
同じように、自分がもう体力的に長編映画一本分の画を描けなくなったと思った時、引退を決意した。
そんな風に思った。
 
 
余談だが、ネット内で『古今東西宮崎走り』と題された動画を偶然見つけた。
どこかのファンが宮崎アニメに出てきた走りのシーンだけをつないだ動画だ。
そこには宮崎アニメの持つ本質のようなものが見える。
評論家や知識人よりもファンの方が「よく分っているなあ」と、あらためて思った。
 
 

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