日記・コラム・つぶやき

2017年1月13日 (金)

芸術は政治より生命が長い

メリル・ストリープは大好きな女優だが、「セシル・B・デミル賞」受賞時のスピーチは好きになれない。俳優やアーチストは基本的に政治的な発言はしない方がいいと思っている。正確に言えば、政治については語ってもいいが、政治家については語らない方がいいと思っている。なぜなら、多くの場合その発言は政治家に利用されてしまうからだ。そして、それは時にアーティスト活動に致命的な影響を与える。
ドナルド・トランプが障害を持ったレポーターの真似をした映像は確かに愚かだが、ヒラリー・クリントンがリビアのカダフィの死について語った映像はもっと醜悪だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Fgcd1ghag5Y
彼女は自分でカダフィ殺害を指示し、その死を知ってテレビカメラの前で高笑いをしたのだ。カダフィは悪人だからいいじゃないかという人は、彼のアフリカでの功績を知った方がいい。アメリカにとって悪でも、あちらでは英雄であり名君であったのだ。
どちらにせよ人の死を高笑いする人物が尊敬に値するとは思えない。
要するにトランプもヒラリーもどちらも品性のない人物であり、今度のアメリカ大統領選はどっちがより下品かを争ったようなものだった。史上最低の大統領選と言われた所以である。

芸術は政治よりも生命の長いものだ。
「第三の男」のオースン・ウェルズのセリフではないが『ボルジア家の圧政のもと、ダビンチやミケランジェロが生まれた』が、ボルジア家が滅んだ後も彼らの芸術は愛され続けている。
ワグナーはナチスに利用されたが、今、彼の曲をヒトラーと結び付けて聞く人はいないだろう。しかし、レ二・リーフェンシュタールは優れた映画監督だったが、ヒトラーに近づきすぎたため、戦後二度と映画を撮れなかった。
勿論、アーチストも一市民なのだから政治に関心を持つのは当たり前だ。政治活動を行う権利もある。イーストウッドは共和党の党大会に出てオバマ大統領を批判したが、それは政治集会なのだからある意味当然だろう。しかし「セシル・B・デミル賞」の授賞式は場違いだと思う。そこで政治的なスピーチをするのは、世間の耳目が集まるその場を利用しているだけで、プロパガンダの匂いがする。スピーチ自体も民主党のスピーチライターが書いたのかと疑いたくなるような内容だ。あの素晴らしきメリル・ストリープが、こんな下世話な事に関わって欲しくないと言うのが正直な感想だ。
もし政権を批判したいのなら、チャップリンが『独裁者』を作った様に、ダルトン・トランボが『ローマの休日』に反赤狩りのメッセージを込めたように、作品で表してほしい。それが見事な作品なら、それはきっと為政者たちよりも長生きするだろう。

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2016年2月13日 (土)

覚醒するは我にあり

最近は「覚醒」が流行りのようだ。

「スターウォーズ」も覚醒だし、「エウァンゲリオン」も覚醒だった。「マトリックス」も確かそんな感じだった。

「ロッキー」は生卵を四つ飲んで早朝の街を走った。「巨人の星」の飛雄馬は大リーグボール養成ギブスを着けて通学していた。ヒーローになるには努力と訓練が必要だった。しかし今は違う。「覚醒」することが全てなのだ。そして「覚醒」したヒーローは「訓練」してきた奴よりも強かったりする。

平凡な人生を送っている者が、ある日突然「覚醒」して、ヒーローになる。そんなファンタジーを提供するのもエンタテインメントの役割の一つだ。だからそれはそれで構わないのだが、現実の世界ではそうもいかない。ジョージ・ルーカスだって、ある日突然「覚醒」して「スターウォーズ」を作った訳ではないだろう。

いやまてよ? 実は「覚醒」しただけなのだろうか? だとしたら「どうしたら面白い脚本を書けるんですか?」と聞いてきた人たちに、私が言ってきたことは間違っていたのかもしれない。「沢山本を読め」とか「良い脚本を模写しろ」とか「とにかく書いて人に読ませるんだ」とか言うべきじゃなかったのかもしれない。本当は、あの小さな緑色の老人の様に、こう言うべきだったのか?

「フォースを信じるのじゃ!」 

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2015年8月23日 (日)

『絶歌』を読みました

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『絶歌』を読みました。    
酒鬼薔薇こと元少年Aが書いたあの本です。実は、出版されてすぐに手に入れて、その日のうちに読みました。「あんな物は出版するのが間違っている」「買って読む奴の気が知れない」などと大騒ぎとなりましたが、どうやら騒ぎも収まったようです。      
出版に関する道徳的な問題についても思うところはありますが、一番に考えるべき事は、「それでは彼を死刑にするべきだったのか?」という事だと思います。      
死刑に相当する罪を犯したのです。そうならなかったのは「少年法」によって守られていたからです。では少年法の目的とは?「まだ若いから更正の見込みがある」という事でしょうか? それでは、彼は更正したのでしょうか? そもそも更正とは何でしょうか?      
悪いことをしたら電流を流し、言う事を聞いたらエサを与える。その様なことを繰り返して「条件付け」の様なことするのは可能かも知れません。しかし、持って生まれた性質や価値観を根底から変えることが出来るのでしょうか?      
気になる描写があります。      
「その歳であれだけのことをやったんや。頭もええし度胸もあるんやろ」      
彼を担当した刑事の言葉です。わざわざ書き留めているということは、元少年Aにとって意味のある言葉だったんでしょう。週間文春の記事にはこんな言葉も出ています。      
「14歳であのような行為が出来た自分に対して、今の自分が激しく劣等感を抱いているのは確かです」      
最初に出版する予定だった出版社の編集長に語った言葉だそうです。それにしても、「劣等感」というのは自分より優秀なものに感じる感情ではないでしょうか。      
殺した子供の頭部を学校の門の前に置いた、あの世間を戦慄させた犯行の場面は、本の中でこの様に描写されています。      
「いろいろと悩んだ挙句、僕は門の真ん中に頭部を置き、二、三歩後ろに下がって、どう見えるか確認した。その瞬間、僕の世界から音が消えた。世界は昏倒し、僕だけが起きているようだった。地面。頭部。門。塀。塀の向こうに見える校舎。どの要素も、大昔からそうなっていたように、違和感なく調和し、融合している。(中略)もう、いつ死んでもいい。そう思えた。自分はこの映像を作るために、この映像を見るために生まれてきたのだ。すべてが報われた気がした」      
この描写、まるで小説です。      
(ちなみに彼はなかなかの読書家で、三島由紀夫、太宰治、ドストエフスキー、村上春樹などの引用が沢山出て来ます。彼自身の文体もそれらの作家の影響を受けていて、猫殺しの描写などは似た場面がある「海辺のカフカ」を思い出しました)      
当初から、門の前に首を置いた行為を彼は「作品」と言っていたそうです。それが作品なら、殺人は自己表現の手段という事でしょうか? (子供の頃から彼のヒーローはジェフリー・ダーマーやテッド・バンディなどの連続猟奇殺人犯だったそうです)      
これらを総合すると、彼はあの事件を「反省」などしていません。むしろ「凄いこと」をした自分を誇らしく思っているようにも思えます。そして、手記というよりもまるで私小説のような『絶歌』という本を出版することは、もうひとつの「凄いこと」だったのかも知れません。

さて、最初の問いに戻りましょう。
「それでは、彼を死刑にするべきだったのか?」
死刑そのものに対する是非がある事も知っていますが、今はそれを論ずるのはやめます。同じように凶悪な事件を起こした宮崎勤も宅間守も、既に死刑になりました。彼らは手記を書くことも再犯に走ることもありません。一方、元少年Aは生き延びて、現在32歳だそうです。      週刊誌の記事によれば、被害者3人に対して総額2億円の賠償金を背負っているそうです。ご両親が書いた手記(これも読みました)の印税や毎月の支払いがあってもいまだ1億数千万残っているそうです。『絶歌』の印税は2000万ほどになるそうで、これに関しても世間は「けしからん」とか「遺族に全て支払うべきだ」という意見がありましたが、たとえ全額払ったとしてもまだ1億の賠償金が残ります。      出版界は『絶歌』から『火花』に話題が移り、「本を引き上げるべきだ」とか「サムの息子法のような法律が日本にも必要だ」という議論はすっかり影を潜めました。それは出版界にとっては良いことなのかも知れません。今年最大の話題が『絶歌』ではやりきれないでしょう。しかし、元少年Aはまだ生きています。32歳という男盛りで、1億の賠償を抱え、日の当たる場所に出ることも出来ず、まだまだ長い人生を生きて行くのです。
「一生、苦しめばいいのよ!」とある文化人が言いました。その気持ちも分りますが、苦しんだあげく彼が追い詰められ、もう一度「凄いこと」をするかもしれません。私はその方が気になります。      

この本の出版人が言った様に、これを機に本当に少年法について再考するべきなのではないか、と思うのですが……。

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2014年7月 4日 (金)

『ジェーン・オースティン』な日々


ジェーン・オースティン関係で初めて見た映像作品は『ジェーン・オースティンの読書会』という映画だ。
『読書会』なるものがどんな風に行われているのか知りたくて見たのだが、恥ずかしながらオースティンの小説を読んだことがなかったので、細部がよく分らなかった。
 
オースティンは19世紀初頭に活躍したイギリスの小説家で、生涯に6本の長編小説を残している。
映画の中では、五人の女性と一人の若い男性が毎月一本ずつ決められた小説を読み、それについて皆で議論をするという形で物語が進む。
オースティンファンの女性達の中に一人だけ紛れ込んだ若い男は、実はSFファンでオースティンを読むのは初めてだ。彼は全6作が合本になった巨大な本を抱えてスポーツタイプの自転車で現れる。
彼と、年上のオースティンファンの女性とのラブストーリーが中心となり、その他にも読書会メンバーの不倫や友情や夢や挫折など様々なドラマがパラレルに描かれる。
 
「オースティンを読む男性は善人」という視点が貫かれていて、結局、オースティンを知らないとよく分らない部分がある。
 
と言うわけで、ハードディスクの中に眠っていたオースティン原作の映画を見ることにした。
『ブライドと偏見』、『いつか晴れた日に』の二本だ。
 
『いつか晴れた日に』はとても面白かった。
原題が「分別と多感」などと訳される' Sense and Sensibility'の映画化で、アン・リーが監督をしている。
主演はエマ・トンプソンとケイト・ウィンスレット。他にヒュー・グラント、アラン・リックマンなどが出ている。
エマ・トンプソンは脚本も書いていて、力が入っている。
どのキャストも素晴らしいが、正直に言うとエマ・トンプソンが一番のミスキャストだ。
エマの役はヒュー・グラントと恋に落ちるのだが、姉と弟の様に見えてしまうのだ。
初の外国映画であったアン・リーの演出は素晴らしい。その後の活躍もよく分る。
 
『プライドと偏見』はキーラ・ナイトレイ が美しすぎる。
というより彼女だけが現代モデル風に見えてしまう。父親役のドナルド・サザーランドは素晴らしかった。
 
その後、BBCが製作したジェーン・オースティン・ドラマのボックスセットの存在を知り、さっそく手に入れて、『高慢と偏見』『分別と多感』『エマ』の三本を見た。
 
『高慢と偏見』は放送当時イギリスで一大ブームとなった作品で、ダーシーを演じたコリン・ファースはこれでスターになった。確かに当たり役と言っていい。実に似合っている。『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルを思い出した。
映画版の『プライドと偏見』よりも、全般的にキャストが役に合っている。
物語も、時間が長い分、細部まで描かれていて、同じ原作の映像化としては、こちらに軍配を上げたくなる。
 
『分別と多感』は『いつか晴れた日に』と同じ原作である。
こちらも長さが有利に働き、物語がより深く理解出来る。しかし美術や映像の迫力は、映画版が上かも知れない。
エマ・トンプソンに感じだミスキャストは、こちらにはない。
妹とその恋人は現代風な顔つきだが、逆にそれが保守的な姉の恋愛と対比され、効果を発揮している。
その若者ウィロビーを演じた役者は、どこかで見たことがあると思ったら、映画『17歳の肖像』に出ていた。
 
『エマ』は以前にグイネス・パルトロウ主演で映画化されている。
エマは他人をカップリングするのが大好きだが、その割に恋愛心理に疎くて、間違った相手をカップリングしたりする。やがて自分の恋愛心理に気づき……というコメディだが、若きパルトロウが実に可愛く演じていて、楽しい映画だった。
BBC版のヒロインはパルトロウに比べると美しさでは劣るが、お節介なキャラクターとしては、パルトロウよりも雰囲気が合っている。
 
そんなわけで、オースティンの6作品のうち3作品を、映画版とBBC版で見たのだが、印象に残っているのはBBC版の質の高さだ。
BBCが作ったエピックドラマは、シェイクスピア原作なども含めて以前にも見たことがあるが、正直、衣装をまとった再現ドラマのようにしか見えなかった。
しかしここ最近のレベルアップは目を見張る物がある。
ターニングポイントとなったのは『高慢と偏見』らしい。
脚本、演出、そしてキャスティング、全てがレベルアップしている。映像もハイビジョンになり、横長のビスタサイズに近くなり、劇場用映画と比べても遜色がない。
そして、映画よりも時間が長いせいで、原作を損なうことも少ない。
このレベルのドラマがテレビ放送で見られるのは素晴らしいが、これでは映画館に来る人はますます減るなあと思ってしまった。
 
その後『ジェーン・オースティンの読書会』を再び見る。
今度はかなりよく分った。
 
若い男が、「自分が好きな本も読んでみてよ」と年上の女性にSF小説を手渡す。ル・グインの『闇の左手』だ。
SF小説は苦手だという彼女に、「でも僕だってオースティンのようなガーリー小説(少女向け読物)を読んだんだから」というと、「オースティンはガーリー小説なんかじゃないわ」と反論される。
「もちろん、今では僕もそう思っている。だから君もル・グインをただのSF小説だと思わないでくれ」と彼は再反論する。
その後、くっついたり離れたりと色々あった後、やっと彼が貸した『闇の左手』を彼女が読む。
そして二人は初めて結ばれる。
という展開は上手いと思った。
 
読書の趣味はその人となりを表す。
そして、他人が推薦する本を読むことによって、相手に対する偏見を払拭し、互いに理解を深める。
『読書会』を利用した、上手いエピソードだと思った。
 
 
その後、私は小説版『高慢と偏見』に挑戦しています。
 
 

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2013年8月24日 (土)

告知です~天下一音楽会と「事実は小説より奇なり」

フェイスブックにも載せましたが、告知であります。
 
 
私「もろさわ和幸」は9月3日(火)に天下一音楽会のシンガー部門第4回戦(ブロック決勝)に出場します。

日時 9月3日(火)18時30分開場 19時開演
場所 代々木バーバラ
http://www.yoyogi-barbara.jp/acc.html
料金 2000円+1ドリンク
※ 私の出演は出演は20時40分予定となっております。

以前にも書きましたが、これは予選を勝ち抜くと決勝はゼップ東京で行われるというトーナメント形式の音楽会です。
皆さんのおかげで、1回戦4位、2回戦3位、3回戦2位と駒を進めてきました。
次回は第4回戦ブロック決勝です。
今までは8名出場のうち4人が勝ち残るというシステムでしたが、次回は8名中一人だけが選ばれます。そしてその一人だけがゼップ東京の決勝の舞台に立てるという、実に厳しい状況となります。
勝敗は当日会場に来て頂いた方の投票で決まります。
皆さん、今一度のご協力のほど、よろしくお願いします!
 

そしてもう一つ。

実は先日、テレビ朝日のバラエティ番組の収録に参加して来ました
『事実は小説より奇なり』というタイトルのスペシャル企画で、放送は9月4日(水)24時20分から25時15分の予定です。
既に記事は出回っているようなので、お知らせしました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130824-00000005-the_tv-ent

MCが沢村一樹さん、アシスタントに渡部健さん(アンジャッシュ)、出演は、石田衣良さん、君塚良一さん、西村賢太さん、そして私両沢和幸という顔ぶれです。
実際に起きた「奇なる出来事」をもとに、それが小説や映画の企画になり得るか、という事を皆で語る番組で、なんだかドラマや映画の企画会議のような様相でありました。
少人数でリラックスした雰囲気で、楽しい収録でありました。
時間と興味のある方はご覧になって下さい。

 

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2013年4月 3日 (水)

世界をリセットする

 
「学校っていうのは、子供にとって一つの世界なんです」
 
たとえばイジメに関連した事件などが起きるとテレビのコメンテーターは、そんな事を言う。
確かにその通りだと思う。
家庭と学校の往復が日常のほとんど全てである学生にとって、学校はひとつの社会であり、時には世界の全てに匹敵する。イジメに苦しむ子供が、最後に自殺という手段をとってしまうのは、他に行き場がないと思い込んでしまうからだ。
 
しかし、もちろん、学校は世界の全てではない。
世界のほんの一部でしかないのだが、それを実感するのは、金も力もない学生にとっては難しいことかもしれない。
 
 
などということを考えたのは、「桐島、部活やめるってよ」という映画を見たからだ。
 
この映画は去年公開されて、小さな作品であるが、話題になった。
話題になったのは、一部の若い観客の熱狂的な支持を得たからだ。そして、なんと最後には日本アカデミー賞の作品賞まで取った。
私は劇場では見そこなったので、つい最近DVDで鑑賞することになった。
 
面白かったかと問われれば、「うーん」と言葉を飲んでしまうだろう。
少なくとも熱狂はしなかった。
もちろん、私はすでに50歳を過ぎているし、そもそもこの映画のメインターゲットではない。だから、私の評価がどうであろうと、関係者は気にもしないだろう。
では、私がもっと若い頃にこの映画を見ていたらどうだろう。
熱狂しただろうか? 感動しただろうか?
 
個人的な話になるが、私は4つの小学校に通っている。父の仕事の事などが原因で、転校が多かったのだ。
小学校は6年生まであるが、4つの違う学校に通ったという事は、つまり一つの学校に2年といなかった計算になる。
最初の転校の時には泣いたような記憶がある。しかしその後は、慣れてしまったのか、少し楽しみに感じる部分もあった。
それはつまり「世界をリセット」する楽しみだ。
学校が変わると友人関係が変わる。親しい友人とのつきあいも途切れるが、反面新しい友人との出会いがある。嫌なクラスメイトからは解放される。
子供の頃にこのような環境に慣れてしまったせいか、その後も、「世界はリセットされる」という感覚が身についてしまった気がする。
小学校が終わると、中学の3年間があり、その後は高校の3年間があり、大学の4年間がある。その度に私の小さな世界はリセットされ続けた。
そのリセット期間を乗り越えてつきあいが持続する友人も勿論いるが、大半の人間関係、馴染みの街、馴染みの店などは、新しいものに変わっていった。
 
「我々は、この世界で生きていくしかないのだ……」
というセリフが「桐島……」の中にあった。
劇中で映画サークルが作るゾンビ映画のセリフなのだが、おそらく主人公の心情と、この映画のテーマを象徴しているのだろう。
「そんな事はないんじゃないの」というのが、そのセリフに対する私の感想だった。
 
私がこの映画を見て、それほど心が動かなかったのは、おそらく自分が登場人物のどれにも相当しない気がしたからだ。
私は多分、桐島事件があった翌日に転校してきて、「桐島ってだれ?」と言っている人物なのだ。
実際、転校というのはそう言う物だった。
既に出来上がっている人間関係の中に突然現れて、空気の読めない発言を連発したりするのだ。
 
「桐島……」に限らず、最近の特に若者を主人公にした作品は時代の「閉塞感」を描いた物が多い気がする。
作品は時代の象徴である。
実際にその「閉塞感」を感じ、そこから抜け出したいという思いが犯罪の原因になることもある。
数年前に起きた秋葉原の殺傷事件の時にも、同様の事が語られた。
 
大学卒業後、私は日活という会社で助監督になるのだが、入社した時から「一体いつ辞めるべきか」と考えていた。
会社に入ってしまうと、学生時代のように3年たてば卒業ということはないので、世界をリセットするには自分からリセットボタンを押さなければいけない。
果たして3年が過ぎた頃に「辞めます」と会社に告げた。
結果的には辞めなかった。
「辞めて脚本家になります」と言ったら、「だったら企画をやってみないか」と社長に言われて、企画営業部という部署に移った。
それでも、その変化は意外に大きく、またしても私の世界はリセットされた。
今までつきあいのなかったテレビ局の人たちと知り合うようになった。
その後も、私はプロデューサーになり、管理職になり、その度に少しずつ世界はリセットされたのだが、その後の決定的な「リセット」は会社が倒産したことだった。
倒産後、私はフリーランスになり、脚本家になり、その数年後映画監督になった。
 
時代の閉塞感という物は、私にもよく分かる。
今の日本は良くも悪くも安定した社会だ。明治維新や太平洋戦争の敗戦のように、劇的に社会が変化することは、もうないのかもしれない。
そんな中、その閉塞感に苛立ち、苦しんでいる若者は多い。
いや、若者に限らず、何か変化を求めつつ、現状に甘んじている人はとても沢山いるだろう。
しかし、本当の「世界」をリセットすることは出来ないにしても、「自分の世界」をリセットすることは出来ると私は思う。
問題はリセットボタンを見つけること、そしてそれを自分の手で押すこと。
それには、ちょっとした勇気が必要だ。
 
 
 
 

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2013年1月21日 (月)

真実か伝説か  キャパに関する一考察

 

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「キャパ」というカメラ雑誌を買ったら、ロバート・キャパの特集をしていた。

 
ロバート・キャパは恐らく報道カメラマンとしては最も有名な人物だ。「みんなキャパになりたかった」とその特集の表題には書いてある。実際、キャパに憧れて報道カメラマンの道を選んだ人は多い。私も高校から大学の頃、キャパに憧れていた。彼の写真展があれば必ず出かけたし、彼の著作「ちょっとピンボケ」も読んだ。
 
世界中を旅して、報道写真で名をあげ、賭け事やパーティーが大好きで、沢山の友人と女と付き合った。ヘミングウェイ、スタインベック、ピカソ、マチスらと交友し、素晴らしい写真を撮った。ハリウッドにいた時は、バーグマンと恋仲にもなった。最後はカンボジアの国境付近で地雷を踏んで死亡した。
 
その人生はまるで映画のようだ。男だったら、多くが憧れる人生だと思う。誰かが彼の人生を映画にしてくれないかな、とずっと思っている。
 
彼の写真でもっとも有名なのは、スペイン内戦で銃撃され崩れ落ちる義勇軍兵士を撮ったものだ。報道写真史上で最も有名だと思われるこの写真について、実は長い間、ある種の噂がある。これは本当に戦場で撃たれた瞬間を撮ったのか? 実はヤラセではないのか、と言う噂だ。
 
少し前に、この事について文芸春秋紙上にノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが、長文のルポを載せていた。私は、それも買って読んだのだが、読んでいるうちに色々と思うところがあって、それについて書いてみたい。
 
沢木氏が以前からこの問題に興味を持っていたのは知っている。以前にも、同じテーマで書いた文章を読んだことがある。ちなみに沢木氏は、あの写真はヤラセだとまでは行かないが、実戦を撮ったのではなく、偶然兵士が転んだところを撮ったと推察している。一方、キャパの長編伝記の作者リチャード・ウィーラン氏は、そういう疑惑があるのを踏まえたうえで、それをあれこれと詮索するのは病的だと断じている。キャパが撮ったあの写真が当時のスペイン内戦を象徴する写真であり、その後の報道写真のあり方を示したシンボルのような存在であるのは事実なのだ、というのがウィーラン氏の考えだ。沢木氏は、そんなウィーラン氏の考えをだだロマンチックなだけだと思っているようだ。
 
 
Kusureotiru_3 ちなみにこのキャパの伝記を翻訳したのは沢木氏である。沢木氏はキャパが嫌いなわけではない。とても興味深い存在だと思っているのだろう。
 
沢木氏は、文春紙上のルポではかなり執拗に、細かい点まで見逃さないで取材を敢行している。それは見事なものである。そして、今まで誰も指摘しなかった視点からキャパの写真を検証している。曰く、そもそもこれはキャパが撮ったものなのか?
 
キャパは通常ライカというカメラを使っている。このカメラはライカ版と呼ばれる35ミリフィルムを使う。沢木氏は、この有名な写真はライカではなく中版カメラ、具体的にはローライのカメラで撮られたのだと指摘している。そしてそのローライを扱っていたのはキャパではなく、キャパの恋人のゲルタではないのか……。
 
沢木氏が、その結論に到達する様はまるで推理小説のように面白い。しかし、ウィーラン氏の言うように病的にも感じる。
 
ちなみにキャパの恋人だったゲルタの事は、キャパを知る人なら皆知っている。ウィーラン氏の伝記でも前半には二人の話が沢山出てくる。
 
キャパの本名はアンドレ・フリーマンという。アンドレとゲルタは、共に写真に興味を持っていた。そして、若く無名な二人は報道写真家として売り出すために、一計を案じる。自分たちはアメリカで有名な写真家ロバート・キャパの代理業をやっている、と偽って自分たちの撮った写真を売って歩いたのだ。つまりロバート・キャパというのは、二人の共同ネームだったのだ。そういう意味で言えば、ゲルタが撮った写真をキャパの写真だと称することは、何の問題もないのだが……。
 
沢木氏の結論としては、キャパはこの有名な写真を自分の写真として公表し、それがきっかけで有名になってせいで、十字架を背負ってしまった。そして、本当に偉大な戦場カメラマンになるべく努力をし、後にこの写真に匹敵するほど有名な『Dデイのオマハビーチ』の写真を撮った、と推理してる。
このストーリーは確かにドラマチックだ。
 
あの写真の真偽についてここで私が細かく検証するつもりはない。私が言いたいのは、果たして伝説の真相を暴くことが、本当に必要なのかという事だ。
 
文春のルポを読みながら、私はだんだん自分が不機嫌になるのを感じた。沢木氏はいったい何を求めてこれを書いているのだろう。彼がゲルタの親族か何かで、彼女の名誉のために真相を暴きたいというのなら、分からなくもない。しかし、なぜ何の関係もない沢木氏が、執拗にあの写真の真偽にこだわるのか。そこには病的なものを感じると同時に、死んだ偉人たちの墓場をひっくり返して商売をする、イエロージャーナリズム的な俗悪が垣間見えるのだ。
 
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ジョン・フォードの映画で『リバティ・バランスを撃った男』という作品がある。
西部開拓時のアメリカのある町にリバティー・バランスというならず者がいて、皆が迷惑している。ジェームス・スチュアートが演じる弁護士はインテリで非暴力の人だ。彼はその町に起きる問題を平和的に解決しようと努力するが、上手くいかず、ついに悪漢リバティ・バランスと銃で戦わなければならなくなる。銃の苦手な彼は、負けを覚悟するが、彼の撃った弾丸は見事にリバティ・バランスを倒す。その結果、彼は町の英雄になる。
 
しかし、この決闘には裏があった。実は、リバティ・バランスを撃ったのは、ジェームス・スチュアートではなく、ジョン・ウエインが演ずるもう一人のガンマンだったのだ。
 
長い年月が過ぎ、ジェームス・スチュアートは有名な議員になっている。そして、ジョン・ウエインは、名もなき男として死んだ。その葬儀の日に、昔の事件の真相をある記者が突き止める。ジェームス・スチュアートは、真相を世の中に公表してくれという。本当の英雄はジョン・ウエインだったのだと……。
しかし記者は最後に真相は公表しないと決断する。
「西部には伝説が必要なんです」
 
 
私はこの結末が好きだし、同じように思っている。
人生には、つまらない真実よりも、美しい伝説が必要なのだと思う。
 
 
 

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2013年1月 5日 (土)

二人の天才

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二人の天才のドキュメンタリーを見た。

スティーブ・ジョブズとグレン・グールド。別に両者には何の関係もないのだが、立て続けに見たら、何だか共通したものを感じた。
天才は孤独だという事。なぜ孤独なのかと言えば、多分、自分と同じビジョンを、誰も共有してくれないからだ。
 
スティーブ・ジョブズには、しかし何人か盟友というべき存在がいる。一番有名なのは一緒にアップルを作ったウォズ。二人はとある友人の仲立ちで知り合うのだが、すぐに親友になった。しかし二人の性格はかなり違うらしい。プログラマーとしてはウォズのほうが優秀で、スティーブはアイディアマンであり営業マンであった。ヒッピーとオタクが一緒に組んで仕事をしたんだ、と誰かが言っていたけど、言いえて妙だ。
 
スティーブのもう一人の盟友というか、実はライバルでもあるのがビル・ゲイツ。
ゲイツとスティーブの関係は、敵同士という風に思っていた。ゲイツがウィンドウズを発表したとき、アップルのユーザーインターフェイスを盗んだと、スティーブは怒った。しかし、ゲイツは「もともとはゼロックスのアイディアで、僕もスティーブも同じところから盗んだだけだ」と反論したという記事を読んだことがある。その後のウィンドウズの躍進と、アップルの低迷のせいもあり、悪の帝国のビル・ゲイツとそれに果敢に挑む勇者スティーブ・ジョブズなんてイメージであったが、このドキュメンタリーを見るとかなり印象が違う。
 
「ゲイツは将来を見通す才能があったが、カリスマ性があるのはスティーブだった」と何人かが証言している。
二人が対談みたいなことをしている映像があるのだが、それを見ていると確かに堂々としているのがスティーブで、ゲイツはなんだか落ち着きがない。しかも驚くべきことにゲイツは、どうやらスティーブに憧れているのだ。それが画面を通じて伝わってくる。
 
スティーブが死んだとき、その死をジョン・レノンになぞらえた人が多かったが、そうするとゲイツはポール・マッカートニーか?
(ちなみにジョンよりもポール派の私は、ウィンドウズユーザーである。アップルを買ったことは何度かあるのだが、仕事となるとウィンドウズの方が都合が良かったのだ)
 
二人の対談の最後に、スティーブがゲイツとの関係について聞かれて、こう答えている。
「僕らは、これから僕らがたどる道よりも長い思い出を持っている」
ちなみにこれはビートルズの曲「トゥー・オブ・アス」からの引用である。
 
 
ジョブズばかりでグレン・グールドの話が少なくなってしまった。
正直彼のピアノはあまり聴いたことがないので仕方ない。彼が凄いピアニストなのは、このドキュメンタリーの中に流れる演奏を聴いてもすぐに分かる。しかし、彼は遅れてきた天才のようにも見える。
彼はあるときから演奏活動を止めて、録音に専念するのだが、もし録音というテクノロジーのない時代に生まれていたら、その方が幸せだったんじゃないか、と思ってしまうのだ。
 
いずれにせよ、天才の話だ。
 

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2012年11月30日 (金)

僕の見た震災はテレビの中

 

『もろさわ和幸バースデイライブ』、無事に終わりました。ご来場してくださった皆様、本当にありがとう御座いました。

 

自分のバースデイライブを自分で企画するというのは、恥を知らないというか、美学がないというか、自分でも呆れていますが、当日のMCでも言いましたが、人間年を取るとあまり細かいことは気にならなくなるもんです。とにかく楽しい一夜でした。

 

オープニングのサトウシンジ君、ゲストの「ユリと森の音楽隊」も、素敵なパフォーマンスを見せてくれました。改めてお礼をいいます。

 

お蔭さまで場内は満員、急遽椅子の数を増やすという事態になりました。満員のお客様の前で唄うというのは、やはり気持ちのいいものです。本当にありがとう御座いました。

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そんな楽しいライブが終わり、近くの居酒屋で出演者と乾杯をした後、ライブに来てくれた大学時代の友人が二人、下北でまだ飲んでいるというので、合流しました。

友人の一人は某電力会社に勤めております。彼は、当日私が唄った歌の一曲「僕の見た震災はテレビの中」の一節を取り上げ、「お前がああいう風に唄ってくれて、俺は嬉しかったよ。ありがとう」と言ってくれました。歌を聞きながら、涙を流したとも言いました。その一節はこうです。

 

もう一度原子炉に 戻らなくてはいけないんだと 

呟いた父の背中を 泣きながら少女は見ていた

この国のエネルギーを 守るのがパパの仕事なんだ

自慢げに話しながら 今まで暮らして来たのに

今ではうつむいて 暗い顔で歩く 

お前の親父のせいで もう故郷には住めない

そう言われた少女の涙を 僕は唄う事が出来ない

 


以上のフレーズは、実際にあの震災があった当日、ツィッターに乗せられた書き込みからインスパイアされて書いたものです。

あの震災以来、その電力会社はつねに批判の矢面に立たされています。しかし、そこには生身の人間がいて必死に働いているのです。そしてその人たちには家族や親戚もいるのです。つまりは彼らはけっして敵ではなく、むしろ同胞なのです。

ミュージシャンや芸術家と呼ばれる人たちの殆どは『反原発』の立場をとります。実際、私が唄ったライブハウスの階段にも『反原発』のポスターが沢山貼ってありました。私の友人はそれを見て「帰ろうかな」と思ったそうです。

彼はクレーム処理をする人材を管理する仕事しています。多くの社員が批判に晒され、ノイローゼになり、辞めていくそうです。

『反原発』は絶対的な正義となってしまい、それを掲げて歌えば、皆がその反骨精神を高く評価します。その一方で水に落ちた犬は叩けとばかり、電力会社を攻撃する。実際に何か被害にあったわけでもない人が、抵抗できない相手をここぞとばかりに叩く。それは、まるで「イジメ」の構造と一緒です。『反原発』という正義があるだけ、余計にたちが悪いかもしれません。

 

正直に言いますが、私はそうやってただ『反原発』を声高に叫ぶだけの人を、想像力の欠如した精神の貧しい人間だとしか思えないのです。

 

 

 『僕の見た震災はテレビの中』

詞・曲 もろさわ和幸

しっかりと握りしめた手を ほんの少しゆるめた時に

振り向いて叫ぶ間もなく あの人は波に消えた

たどり着いた丘の上から 見下ろした故郷の街が

真っ黒な海のうねりに 飲み込まれるのを黙って見ていた

生き延びた事を 喜ぶことも出来ずに

ただあの人の名前を 海に向かって叫び続けた

その悲しみの深さを 僕は唄うことが出来ない

 

もう一度原子炉に 戻らなくてはいけないんだと

呟いた父の背中を 泣きながら少女は見ていた

この国のエネルギーを 守るのがパパの仕事なんだ

自慢げに話しながら 今まで暮らして来たのに

今ではうつむいて 暗い顔で歩く

お前の親父のせいで もう故郷には住めない

そう言われた少女の涙を 僕は唄う事が出来ない

 

初めて海に出たのは 六歳の時だった

船酔いに苦しみながら はるかな海原を見ていた

あれから五十年 海が全てを与えてくれた

妻や子供や家族 そしてささやかな人生

その同じ海が 全てを奪って行った

毎日 海の神様に 祈りを捧げていたのに

そう語る漁師のいらだちを 僕は唄う事が出来ない

 

あの日 テレビの中で 崩れ落ちる町を見ていた

息が苦しくなって 僕はテレビのスイッチを切った

そんな僕には あの日を唄う事が出来ない

 

果てしなく続く 瓦礫の前に立つ時 

絶望という言葉の 本当の意味を知った

 

けれど暗闇の中から 微かな声が聞こえる

しっかりと握りしめた手を 二度と離してはいけないと

しっかりと握りしめた手を 二度と離してはいけない

しっかりと握りしめた手を 二度と離してはいけない

 

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2012年9月16日 (日)

最近読んだ本

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先週まで原稿書きで忙しかった。

原稿を書いていると何故か本が読みたくなる。原稿のための資料ばかり読んでいるのに、うんざりするのだろうか? あまり関係のない本を読みたくなる。

写真は、そんな風にして最近読んだ本の一部。

「マリリン・モンローとともに」 スーザン・ストラスバーグ
「マリリン・七日間の恋」に刺激されて読んだ。著者はスーザン・ストラスバーグ。リー・ストラスバーグの娘で、マリリンのアクターズスタジオ時代の友人であり、自身も女優である。二人の出会いから、マリリンの死による別れまで。友人としてライバルとして、そしてストラスバーグ家の姉妹の様な関係としていろいろなエピソードが描かれている。ちょっと驚いたのはセックスに関する話題。スーザンが成人した時、母親のポーラ・ストラスバーグがペッサリー(女性に装着する避妊具)を娘にプレゼントとしたって書いてあるんだけど、これって日本じゃあり得ないよね。マリリンと二人で男女の体位の話をするエピソードも出てきて、「私が一番経験した数字は69よ」なんて会話もある。
スーザン・ストラスバーグは「アンネの日記」の舞台で戦列なデビューを飾ったそうだが、私が記憶にあるのはシドニー・ルメットの「女優志願」だけだ。若く、美しく、芝居も上手かったが、マリリンの持っているカリスマ性はない。マリリンはスーザンの演技力と恵まれた環境をうらやましいと思っていたそうだが……。俳優業の難しいところだ。

「復活」 トルストイ
やっと読み終えた。話は舞台やドラマにもなっているので何となく知っていたが、読むとやはり違う。「アンナ・カレーニナ」の時にも思ったけど、やはり原作を読むべきだよな、とつくづく思った。

 

「日はまた昇る」 ヘミングウェイ
これも映画を見たことがあったが、あまり面白くはなかった。原作も以前読んだ事があるのだが、ほとんど記憶にないので、再読。新しい翻訳のおかげもあり、とても面白かった。その後の「武器よさらば」や「誰がために鐘はなる」とはかなり趣が違う。個人的には冒険小説風の「武器」や「鐘」より、こっちの方が好きだ。フィツジェラルドに通じる部分も多い。ということは村上春樹的であるという事で、ハルキ好きにもおすすめ。
 

「幻のキネマ満映」 竹中労
これは資料の意味合いも含めて読んだ。現在、「満映」や昔の撮影所の話に興味があって、引き続き「甘糟正彦」関係の本を読んでいる。


かつて撮影所に所属していた身としては、昔の撮影所を舞台にした物語に、郷愁と憧れを感じる時がある。

いつか、そういった舞台を背景にした物語を作ってみたいと思う。

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