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2015年8月

2015年8月23日 (日)

『絶歌』を読みました

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『絶歌』を読みました。    
酒鬼薔薇こと元少年Aが書いたあの本です。実は、出版されてすぐに手に入れて、その日のうちに読みました。「あんな物は出版するのが間違っている」「買って読む奴の気が知れない」などと大騒ぎとなりましたが、どうやら騒ぎも収まったようです。      
出版に関する道徳的な問題についても思うところはありますが、一番に考えるべき事は、「それでは彼を死刑にするべきだったのか?」という事だと思います。      
死刑に相当する罪を犯したのです。そうならなかったのは「少年法」によって守られていたからです。では少年法の目的とは?「まだ若いから更正の見込みがある」という事でしょうか? それでは、彼は更正したのでしょうか? そもそも更正とは何でしょうか?      
悪いことをしたら電流を流し、言う事を聞いたらエサを与える。その様なことを繰り返して「条件付け」の様なことするのは可能かも知れません。しかし、持って生まれた性質や価値観を根底から変えることが出来るのでしょうか?      
気になる描写があります。      
「その歳であれだけのことをやったんや。頭もええし度胸もあるんやろ」      
彼を担当した刑事の言葉です。わざわざ書き留めているということは、元少年Aにとって意味のある言葉だったんでしょう。週間文春の記事にはこんな言葉も出ています。      
「14歳であのような行為が出来た自分に対して、今の自分が激しく劣等感を抱いているのは確かです」      
最初に出版する予定だった出版社の編集長に語った言葉だそうです。それにしても、「劣等感」というのは自分より優秀なものに感じる感情ではないでしょうか。      
殺した子供の頭部を学校の門の前に置いた、あの世間を戦慄させた犯行の場面は、本の中でこの様に描写されています。      
「いろいろと悩んだ挙句、僕は門の真ん中に頭部を置き、二、三歩後ろに下がって、どう見えるか確認した。その瞬間、僕の世界から音が消えた。世界は昏倒し、僕だけが起きているようだった。地面。頭部。門。塀。塀の向こうに見える校舎。どの要素も、大昔からそうなっていたように、違和感なく調和し、融合している。(中略)もう、いつ死んでもいい。そう思えた。自分はこの映像を作るために、この映像を見るために生まれてきたのだ。すべてが報われた気がした」      
この描写、まるで小説です。      
(ちなみに彼はなかなかの読書家で、三島由紀夫、太宰治、ドストエフスキー、村上春樹などの引用が沢山出て来ます。彼自身の文体もそれらの作家の影響を受けていて、猫殺しの描写などは似た場面がある「海辺のカフカ」を思い出しました)      
当初から、門の前に首を置いた行為を彼は「作品」と言っていたそうです。それが作品なら、殺人は自己表現の手段という事でしょうか? (子供の頃から彼のヒーローはジェフリー・ダーマーやテッド・バンディなどの連続猟奇殺人犯だったそうです)      
これらを総合すると、彼はあの事件を「反省」などしていません。むしろ「凄いこと」をした自分を誇らしく思っているようにも思えます。そして、手記というよりもまるで私小説のような『絶歌』という本を出版することは、もうひとつの「凄いこと」だったのかも知れません。

さて、最初の問いに戻りましょう。
「それでは、彼を死刑にするべきだったのか?」
死刑そのものに対する是非がある事も知っていますが、今はそれを論ずるのはやめます。同じように凶悪な事件を起こした宮崎勤も宅間守も、既に死刑になりました。彼らは手記を書くことも再犯に走ることもありません。一方、元少年Aは生き延びて、現在32歳だそうです。      週刊誌の記事によれば、被害者3人に対して総額2億円の賠償金を背負っているそうです。ご両親が書いた手記(これも読みました)の印税や毎月の支払いがあってもいまだ1億数千万残っているそうです。『絶歌』の印税は2000万ほどになるそうで、これに関しても世間は「けしからん」とか「遺族に全て支払うべきだ」という意見がありましたが、たとえ全額払ったとしてもまだ1億の賠償金が残ります。      出版界は『絶歌』から『火花』に話題が移り、「本を引き上げるべきだ」とか「サムの息子法のような法律が日本にも必要だ」という議論はすっかり影を潜めました。それは出版界にとっては良いことなのかも知れません。今年最大の話題が『絶歌』ではやりきれないでしょう。しかし、元少年Aはまだ生きています。32歳という男盛りで、1億の賠償を抱え、日の当たる場所に出ることも出来ず、まだまだ長い人生を生きて行くのです。
「一生、苦しめばいいのよ!」とある文化人が言いました。その気持ちも分りますが、苦しんだあげく彼が追い詰められ、もう一度「凄いこと」をするかもしれません。私はその方が気になります。      

この本の出版人が言った様に、これを機に本当に少年法について再考するべきなのではないか、と思うのですが……。

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2015年8月20日 (木)

『ソルジャー・ブルー』&『バニシング・ポイント』

70年代ニューシネマ二本立てである。
どちらもテレビで見た後、名画座で見て、DVDでも見直した作品。

「バニシング・ポイント」は何度も買い直している。マニアの多い作品で、いろんなバージョンが出たのだ。今回はブルーレイを買って見た。
正直、B級だと思いつつ、代えがたい魅力がある。
究極のカーチェイス物と言ってもいい。走る理由が明確に提示されていないからだ。それでも痛いほど走る理由が分かる。そんな作品だ。
この作品で初めてバニシング・ポイントという言葉を覚えた。日本語に訳せば「消失点」か。そこに向かって走るというのは、決してそこにはたどり着けないということも含めて、哲学的な何かを感じる。それがこの映画の魅力だ。

「ソルジャー・ブルー」は久しぶりに見た。
最初にシャイアンが騎兵隊を襲い、生き残った兵士と女性が二人で旅をする。ロードムービーの構成だ。最後、逆に騎兵隊がシャイアンを襲い、悪名高い虐殺シーンがある。女子供の首をはね、手足をバラバラにして、それを手に笑う兵隊たち。(マンガ「デビルマン」のクライマックスはこれの影響を受けているに違いない)
実際に起きた出来事だそうだ。
途中のロードムービーの件が思っていたよりも長かったが、映像はとても美しかった。アメリカ大陸の美しさを描くことによって、最後の惨劇を際立たせる意図だろうか。
主題歌のレコードを買って、よく聞いていた記憶がある。「いちご白書」の主題歌「サークルゲーム」のB面だった。

 

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2015年8月 6日 (木)

「マディソン郡の橋」

「マディソン郡の橋」のブルーレイを見る。

これは当時大ベストセラーとなった小説の映画化で、出版された時から誰がが映画にするとは思っていたが、まさかクリント・イーストウッドが監督主演をすとは思わなかった。そして相手役がメリル・ストリープとは、予想の斜め上を行く展開だった。

映画はしかし面白かった。原作よりも良かったと言ってもいい。
原作は正直ハーレクイン・ロマンスのような安手のメロドラマにも感じられ、なぜベストセラーなのか不思議だった。

映画の脚本家も同じだったらしく、「僕はまだ無名だったので、原作には興味がなかったけど、とにかく仕事だと思ってやった」とメイキング映像の中で正直に語っている。
ヒロインをオファーされたメリル・ストリープも「部分的に読んだけれど、やりたいとは思わなかった」と言っている。しかしクリント・イーストウッドから直接電話がかかってきて口説かれたそうだ。

最初の監督は別の人だったらしい。その監督は大幅に本を改変したがったので、プロデューサーと意見が合わずプロジェクトを降りたそうだ。イーストウッドは、「これは沢山の人に楽しまれた原作だから、なるべく変えない方がいい」と脚本家に語った。
こういう時のイーストウッドの判断は素晴らしい。

音声解説で、イーストウッドのスタッフ、カメラマンと編集マンが語っている。彼ら曰く、この役はもっともイーストウッド本人に近いそうだ。
「今まで彼は別人を演じていたが、この映画では自分自身を演じたと言ってもいい」

イーストウッドは奥が深い。

 

 

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2015年8月 4日 (火)

「アメリカン・スナイパー」再び

「アメリカン・スナイパー」のブルーレイが出たので、もう一度この映画を見てみた。
最近見た中では、一番気になる映画である。
完成度と言う点では、他のイーストウッド作品には及ばないかもしれない。しかし、彼が今も現役の映画作家であることを証明する映画だ。

劇場で見た後、原作と別のライターが書いた評伝、計二冊を読んだ。読むと映画の見方、そして主人公のとらえ方が少し違ってくる。

原作者が自分で書いている事で一番印象的だったのは、「自分は戦争が好きだ」という言葉だ。「出来ればもう一度軍に戻りたい」とも書いている。
除隊後、彼は民間軍事会社を作り、軍のアドバザー的な事をする。彼の会社の紋章にはこう書かれている「ママが何と言おうとも、暴力は問題を解決する」

「暴力は問題を解決する」これが彼の信じる行動原理だ。
さて、それではイーストウッドはどうなのだろう。彼の最も有名な作品「ダーティー・ハリー」は正しくそういう作品だ。誘拐殺人犯を逮捕しても、証拠の入手方法が違法だからと、犯人はあっさり釈放される。憤りを隠せない主人公は、彼を追い詰めて、射殺する。
「暴力は問題を解決する」という訳だ。

近年、イーストウッド映画は変わったと言われている。
「許されざる者」はアンチ・バイオレンスの映画だそうだ。本当だろうか?
確かに暴力のむなしさを描いているが、最後には主人公の銃が全てを解決する。
「ミリオンダラー・ベイビー」や「グラン・トリノ」はどうだろう?
どちらも最後に主人公が困難な問題に直面する。自分が愛する人間の生死に関わる問題だ。どちらの映画にも神父が出てきて、解決策を授ける。「神に祈りなさい」と……。
しかし、主人公はその教えには従わない。
「ミリオンダラー・ベイビー」では安楽死を実行し、「グラン・トリノ」では自らを射殺させる。どちらも「祈り」に比べれば、暴力的な解決策だ。日本映画だったら、こういうエンディングにはならなかった気がする。

「暴力は問題を解決する」
それは、イーストウッドだけではなくアメリカ全体が信じている価値観なのかもしれない。

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