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2015年3月

2015年3月28日 (土)

『乱』

『影武者』に引き続き、『乱』を観る。

この二つは姉妹編と言えるような共通点を持った作品だ。両方とも仲代達矢が主役であり、様式化されたカラーの時代劇である。
娯楽性から言うと『影武者』の方が親しみやすい。武田信玄や織田信長といった日本人が好きな戦国時代の武将が出て来るからだ。事実『影武者』の方がヒットした。

『乱』は一文字景虎という架空の武将を主役に据えている。原案となったのはシェイクスピアの『リア王』:だが、楓の君はマクベス夫人を思い起こさせる。

様式美の追求という意味では『影武者』より徹底していて、完成度が高い。特に衣装が素晴らしい。アカデミー賞を取ったのも当然といえる出来映えだと思う。

長い映画だが、飽きることはない。冒頭のカットから映画美に溢れていて、何度観たのか覚えていないくらい、繰り返し観ている。

この映画を観るとキューブリックの『バリー・リンドン』を思い出す。そして『バリー・リンドン』を観ると、『乱』が観たくなる。どちらも動く映像として素晴らしい美しさを持った傑作だと思う。

映像だけはなく、勿論、物語も好きだ。
「楓の君」と「鉄」が素晴らしい。
三の城炎上の件は、何度観ても美しくも残酷である。

このシーンは多くの外国映画に影響を与えた。
スピルバーグの「プライベート・ライアン」、スコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」は明からに影響を受けている。

黒澤監督最後の大作である。
黒沢ファンの多くは『七人の侍』には及ばないと言うだろう。しかし、正直に言うが、私は『乱』の方が観ている回数は多い。
何処に惹かれているのか、説明するのは難しい。しかし、そう遠くないうちに、また再び見てしまうだろう。

私にとっては、そういう映画なのだ。

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2015年3月23日 (月)

黒沢明監督の『影武者』を観る

 

    
久しぶりに黒沢明監督の『影武者』を見た。

 

アメリカのクライテリオン版ブルーレイを手に入れたのだ。これを買ったのは、日本版よりも映像が美しいという評判を聞いたからだ。確かに日本版よりも華やかな映像になっている。一番違うのは、中盤の高天神城の戦いのシーンで、日本版だと暗すぎて何が起きているのか分かりづらいのだが、このブルーレイはよく見えるようになっている。この手の修正はアメリカのほうがいつも熱心だ。

   

映画自体は勿論公開時に劇場で見た。というかこの『影武者』こそが黒沢映画の新作を初めて劇場で見た作品である。

   

私が映画を熱心に見るようになった頃、黒沢監督は新作を撮れない時期であった。それ以前の『用心棒』や『羅生門』などの作品は、名画座などで見ていたが、新作を見ることはなかったのだ。

   

『影武者』はカンヌでグランプリを取り、国内でも大ヒットした。

   

しかし一部の日本の映画評論家は、この映画をかなり批判した。ある雑誌などは、その年のワーストワンに選んでいる。当時、学生だった私は、このような反応に驚いた記憶がある。

   

映画自体は実に面白い。これまでにも何回も見ている。      
武田信玄の影武者の話なのだが、単なる戦国時代の英雄列伝になっておらず、個人と組織、アイデンティティーの問題に触れていて、奥が深い。

   

そして何よりも、その映像表現である。      
冒頭の伝令が走って来るカットから、見事に映画的表現に溢れている。カラーの使い方なども独自で、この映画以降、類似の表現が外国映画に沢山見ることができたので、その影響力の強さを思い知った。

   

映画は映像でストーリーを語るものだ。

   

そんな当たり前の真実に改めて気づかされた、『影武者』鑑賞であった。

   

ちなみに特典映像としてルーカスとコッポラが黒沢映画を語るドキュメンタリーが入っている。      
当時、資金集めに苦しんでいた黒沢明に対して、二人が仲介して「20世紀FOX」の協力を得ることが出来たのだ。       
二人の映画芸術に対する熱意が感じられる、素敵な映像特典であった。

   

      

       

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2015年3月 8日 (日)

『アメリカン・スナイパー』

 

 

久しぶりに映画館で映画を見た。クリント・イーストウッドが監督した『アメリカン・スナイパー』である。

 

イーストウッドはいつの間にかアメリカで一番信頼のおける映画監督になってしまった。彼が監督しているだけで、その作品の面白さは保証されている。そんな感じだ。

 

この映画も同様で、オープニングからクライマックスまで、だれることなく観客を引っ張って行く。その職人芸は誰よりも安定している。    
しかし、これが作家の作品なのかと問いかけると、様々な疑問が生まれてくる。

 

「160人を殺したアメリカ最強のスナイパー」というのがこの作品のウリだ。実話だそうで、アメリカってのはいろんな意味で相変わらずだし、凄いなあと思う。

 

はたして160人を殺した男はヒーローたり得るのか?

 

真面目に考察すると、こういう疑問が当然生まれて来る筈だが、この映画ではそこにはあまり触れていない。それは実話をベースにした映画の難しさだ。国民的なヒーローをその座から引きずり下ろす様な事は出来ないのだ。

 

もっとも、その問題に一瞬触れるような部分もある。    
「160人も殺して後悔しているのか?」と医者に聞かれ、「救えなかった同胞の事に後悔の思いがある」と答えるのだ。この場面の本当の意図はどこにあるのだろう?

 

イーストウッド自身がどう思ってこの映画を作ったのか、それは良く判らない。解釈や説明を抜きにエピソードを重ねていく、というのが最近のイーストウッドのスタイルだ。    
そのせいか、この映画は「反戦」とも言えるし「好戦」とも言える物になっている。

 

キューブリックは「フルメタルジャケット」を作るときに、所謂「反戦映画」ではなく、戦争そのものを描きたいと言った。    
イーストウッドの真の意図はどこにあるのだろう?

 

主人公は911のテロに愛国心を刺激され、軍に入り、スナイパーとなる。それまでの彼は、ごく普通のアメリカの若者で、女や酒におぼれ、人生の目的を見つけていない男である。    
優秀なスナイパーとなることで、彼は一人前の男になり、結婚をし、やがてヒーローとなる。      
しかし最後には同じアメリカの元軍人に殺される。

 

これは皮肉なストーリーである。    
アメリカの男は、銃によって一人前になり、銃によって滅びる。      
そんな事を言っているようにも見える。

 

 

 

 

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