« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月

2012年10月28日 (日)

映画監督の死

映画監督の若松孝二さんが死んだ。

交通事故だったそうだ。まだまだ現役だと思っていたので、驚いた。残念な事である。
面識はなかったが、作品は勿論見ている。学生の頃にも、名画座などで若松孝二特集などを見た。業界に入ってからは若松プロの伝説というか武勇伝というか、様々な噂話を聞かされた。色々な意味で異色な監督であったが、連合赤軍を扱った映画は素晴らしかった。
 
この作品に関しても様々な噂話を聞いた。そもそも若松監督がこの映画を作ろうと決意したきっかけは、その少し前に原田真人監督で作られた原田版映画「あさま山荘事件」だそうだ。
連合赤軍に関する映画は、作りたいと思っている映画人が沢山いた。一番有名なのは長谷川和彦監督で、「太陽を盗んだ男」に続く作品として、かなり長い間その制作の噂があった。すでに脚本は出来ていて、何度も映画化の話が持ち上がっては消えたようだ。クライマックスは当然あさま山荘の攻防戦で、長谷川監督は一時期実際の浅間山荘を買い取って撮影したいと思っていたらしい。しかし映画は作られることなく歳月が過ぎ、このまま永遠に作られないのではないかと思っていた矢先、原田版「あさま山荘事件」が現れたのだ。
 
映画が出来て、映画人の多くは驚いた。あさま山荘事件が映画化されるとしたら、主人公は当然、立てこもって国家権力と戦った連合赤軍だと思っていた。しかし原田監督の映画の主人公は機動隊だった。原作者が当時の指揮官なのだから当然の事なのだが、映画人と呼ばれる人たちの多くは連合赤軍に特別の思いを持っていたので、まさか機動隊が主人公の浅間山荘映画が出来るとは思っていなかったのだ。

これを見て、連合赤軍を主人公にした浅間山荘物を作らなくては死んでも死に切れないと思ったのが若松監督だったそうだ。
若松監督が若いころに作った映画は、当時の「運動」の空気を帯びたものが多かった。連合赤軍から派生した日本赤軍のメンバーとの親交もあった。日本の映画界で連合赤軍を題材にして映画を撮る資格と能力があるのは、彼をおいて他にはいないだろう。
実際、出来上がった作品は素晴らしかった。クライマックスの浅間山荘のシーンは、自分の別荘を壊しながら撮影したそうだ。その熱意が十分に報われた作品の出来ばえだったと思う。
若松監督は、この映画化の後にも次々と独自の作品を生み出した。まだまだ撮ると思っていたのに、本当に残念である。
 
若松監督の死を聞いて、二人の映画監督の死を思った。
テオ・アンゲロプロスとスタンリー・キューブリックである。
 
テオ・アンゲロプロスは「旅芸人の記録」「永遠と一日」「エレニの旅」などを撮ったギリシャの監督で、最後の国際的な巨匠と呼ばれていた。私も彼の作品は大好きで、「エレニの旅」などは三度も見てしまった。
すでに高齢であるが若松監督と同じように、まだまだ新作が見れると思っていた。実際、新作の撮影中であった。その最中に交通事故で死んでしまった。
 
スタンリー・キューブリックは学生時代に一番熱狂した監督だ。「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「博士の異常な愛情」「バリー・リンドン」など傑作ばかりだ。
その彼が最後に撮ったのが「アイズ・ワイド・シャット」だ。彼はこの映画の後に「A.I」という作品を作る筈だった。長い間準備をしていて、本当は「アイズ・ワイド・シャット」よりも先に映像化する筈だった。実際、私もそういう風にニュースで聞いていた。あの「2001年」以来の本格的SF映画としてキューブリック・ファンはその完成を熱望していたと思う。その後、色々な事情があって「アイズ……」の後に映像化という予定になった。しかし「アイズ……」を完成させた直後、キューブリックは死んだ。就寝中の心臓発作だったそうだ。
 
このニュースはキューブリックの大ファンであった私に衝撃を与えた。と同時に残酷な真実に気づかされた。つまり、「人生は予定通りにはいかない」という事だ。
 
この事実は私を打ちのめした。何故なら、映画監督になろうとして業界に入ったにも関わらず、私はその時まだ映画を撮っていなかったからだ。テレビの世界である程度成功し、多少は名前も売れ、金まわりも映画会社にいた時よりは良くなった。しかし、これが目指していたゴールなのかと問われれば、そうではなかった。
そして、私は自分の映画を作ることに決めた。数年後出来上がったのが私の監督デビュー作である「キープ・オン・ロッキン」である。
 
「人生は予定通りにはいかない」
いつか監督になろう。いつか自分の映画を作ろう。いつか恋人に打ち明けよう。いつか外国に行こう。いつか……。
人は沢山の「いつか」を抱えながら、代わりばえのしない「今」を生きている。そして「いつか」が訪れる前に、突然、人生のエンドマークが訪れる事もあるのだ。
 
若松監督の死は、再び私にこの残酷な真実を思い出させた。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月 8日 (月)

今でも「キープ・オン・ロッキン」……いわき市再訪

先月の9月28日に福島県いわき市で行われた「ふくしまママズホリディ」というイベントに参加して来ました。

Dscn0858_800x600_2 福島中央テレビの主催で、震災後子育てで苦労しているママさんたちを元気づけようという趣旨で開催されたもので、そのイベントの中で11年前に作った映画「キープ・オン・ロッキン」が上映されたのです。

「キープ・オン・ロッキン」は、私の監督デビュー作で、2001年の7月に福島県のいわき市を中心にロケ撮影が行われました。完成後、今はなき新宿東映パラスを中心に公開され、その後、東京国際映画祭やカルロビバリ国際映画祭などに参加しました。
 
いわき市のロケの際は、まだフィルムコミッションなどがなく、地元の漁協や厚生会議所の人たちに協力していただき、さまざまな場所でのロケが行われました。東京での上映が終わった後、福島のいわき東映でも上映され、地元のイベントにも参加し、市長さんにもお会いしました。
 
映画の撮影以前、私にとって福島いわき市は、たまに天気予報の映像で見る以外に、何の縁もない土地でした。そこでロケを行ったのは、制作部と二人で東京から太平洋側の海岸線を北に上って行き、その場所が東京から程よい距離にあり、そして、丘が海岸線の近くまで迫っている地形が「絵になる」からでした。
 
東京でロックバンドのリードボーカルとして派手な生活を送っていた主人公が、スランプに陥りレコード会社との契約も切られ、失意のうちに帰郷します。地元で堅実に働く昔の友人たちや、病に倒れながらも必死になって自分の工場を建て直そうとする父親の姿に触れ、新しい音楽と新しい人生に目覚めるのです。
Dscn0872_800x600
 
福島県いわき市は、そんなストーリーに主人公の出身地としてのリアリティを与え、その美しい景色は、映画の大きな魅力の一つとなってくれました。
 
そんな訳で福島県いわき市の人たちには、色々とお世話になった映画なのです。
 
それから10年後。東北大震災とその後の福島第一原発の事故のせいで、この地の様子も大きく変わりました。
 
今回、そんないわき市のイベントに参加する事が出来、再びあの撮影地を訪れることが出来たのは、実に感慨深い出来事でした。
 
映画上映後、主演の岡田浩暉くんと私のトークがあり、続いて彼の歌が披露されました。そして、最後に何と私がギターを弾いて岡田くんと一緒に映画の主題歌である「キープ・オン・ロッキン」を歌うというイベントが用意されていました。岡田くんがぜひ私にギターを弾いてほしいと言って来たのですが、私のギターは素人同然で彼はプロのボーカリストです。そんな無茶な、と最初は断ったのですが、彼がどうしてもと言うので、意を決してトライしました。
 
事前に東京で一緒に音合わせをし、その後も個人的に何度も練習を重ねたのですが、案の定、本番になってコード進行を間違ってしまい。「あ、ごめん、もう一度やろう」とやり直しをする羽目になってしまいました。
お客さんは温かい拍手で受け入れてくれた様ですが、やっぱり止めておけば良かったかななどと思いつつ、何とか最後まで弾き終えると、なんと「アンコール」の声。突然の事に何も用意してなかったので、もう一度「キープ・オン・ロッキン」を一番だけ歌いました。その時にはお客さんも一緒に歌ってくれて、大盛り上がり。
 
楽しかったです。
 
Keeponrockin_001_582x800
 
そんなイベントの後、私たちはかつて撮影をした場所を訪ね歩きました。以前と変わらない場所。すっかり変わってしまった場所。色々でしたが、映画の中で主人公の昔のガールフレンドがやっているという設定の喫茶店に行ったら、撮影の際に岡田くんたちが書いたサインが入り口に飾ってありました。少し色あせたそのサインは、11年の月日と懐かしい思い出を運んでくれました。
Dscn0889_800x600
 
店のマスターも私たちの事を覚えていてくれて、ひとしきり思い出話と、そして震災当日の様々な話を聞かせてくれました。
 
いわき市の漁港は、瓦礫などは既になく、一見もと通りに見えました。しかし改めて映画に映っていた光景と比べると、大きな建造物がなくなっていたり、堤防の水位が下がったりしていまたした。 
 
撮影時には活況だった水揚げ場は立入禁止となっていて、人影もまばらでした。そして何よりも少しだけ話をした地元の漁師さんの「もう魚を獲ったって誰も買ってくれないよ。放射能のせいでね」という言葉が、いつまでも心に残りました。 
 
その後、海岸線の道をしばらく走りました。津波に流されたであろう家々の土台を、雑草が覆っているという光景が続きました。かつては海水浴客で賑わったであろう海岸線も、駐車場などの地盤がガタガタに隆起していて、殆どが立入禁止になっていました。 
Dscn0841_800x600
 
これらの光景が元の様になるには、随分と時間がかかるだろう、いや、福島第一原発の問題は現在進行中だから、何の目途もついていないに違いない。そんな事を実感しました。
 
 
 
自然が起こした事であるから、誰を恨む事も出来ない。しかし、その被害と今後の展望の見えない感じは、何とも絶望的な気分にさせるものです。 
しかし、ママズホリディに参加してくれたお母さんたちが連れて来た子供たちの姿を見ると、別の思いも沸いてきます。
 
私たちは失われた物の大きさを嘆いているけれど、彼らにしてみればここが出発点なのだと……。
 
彼らはきっと新しい街を作り、新しい思い出を作って行く事でしょう。
 
それが幸多き物になる事を願って止みません。 
 
Dscn0832_800x600_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »