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2012年5月 7日 (月)

ジョンとポールの物語

野田総理が「日本がポール・マッカートニーでアメリカがジョンレノンだ」と例えた演説は、誰か考案者がいるんだろうか? 正直あまり良い例え話とは思えなかった。
少し前にアル・パチーノとロバート・デニーロが共演した刑事ものでも、「あいつらはレノン・マッカートニーみたいだ」というセリフがあった。

これも正直ピンとこないセリフだったが、ビートルズのヒット曲の大半を書き、リードボーカルを分け合ったジョン・レノンとポール・マッカートニーを、名コンビを例える時に引用したくなるのは判らないでもない。

 

ビートルズ関連の本を読んでいると、二人には単に世界一成功したバンドの主要メンバーという事以外に、特別な絆を感じる。

ジョンは18歳の時に自分の母親を交通事故で亡くした。ポールもその数年前に乳ガンで母親を失っている。二人が出会ったのは、そんな頃であった。二人は音楽以外にも、大事な人の喪失という共通項を持っていた。
ジョンの死後にポールが書いた「ヒヤ・トゥデイ」という曲には、「二人で泣き通した夜もあった」という歌詞が出てくる。
多感な時期に母を失った喪失感を、互いの存在で埋めていたのかもしれない。

「イエスタデイ」という曲に、「彼女は去って行った。僕が何か悪いことを言ったから」という件があって、最初にその歌詞を読んだ時、恋人との別れを歌うにはちょっと子供っぽい歌詞だと思っていたが、その後これはポールが死んだ母親を思いながら作った曲だと知った。
そう思ってこの歌詞を読むと、意味がまるで違って聞こえる。

さて、そんな固い絆で結ばれていたジョンとポールだが、ビートルズ解散時には泥沼の訴訟合戦と罵り合いをする事になる。
それは互いの音楽にも影響を与え、ポールは「トゥー・メニー・ピープル」や「スリー・レッグス」などの曲で遠回しにジョンを批判する歌詞を書いている。当然、ジョンも反撃するが、ジョンのやり方はダイレクトだ。「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ」の中で「お前の書いたのはイエスタデイだけで後は駄作」だなんて事を堂々と歌っている。

これを聞いたビートルズのファンが、「ポールは親友じゃないんですか? なぜ親友と喧嘩するような曲を作るんですか?」とジョンに直接質問している映像をネットで見たことがある。
ジョンの答えはこうだ。

「親友以外の誰と喧嘩をしたらいいのか、俺には判らないね」

ビートルズ解散後、解散時の経緯もあってロック界ではポールを批判する人が多かった。しかしジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ」と言って、他の人間がポールを批判するのを許さなかった。

ジョンはご存じの様に40歳の若さで頭のいかれたファンに撃ち殺される。
その直前のインタビューでこんな事を言っていた。

「俺は人生で二度大きな選択をした。一度目はポール・マッカートニーで二度目はオノ・ヨーコだ。一緒に仕事をしたいと思ったのはこの二人しかいない。二人とも良い選択だったと思う」

ジョンの死後数年してポールは自伝を出す。その中でポールはこんな事を書いている。
「皆が色々な事を言うけど、結局、ジョンと僕の事は二人にしか理解出来ない。二人で部屋にこもって沢山の曲を書いた。ジョンがメロディを書き、僕がカウンターメロディを書いたりした。ジョンが笑ったり、悩んだり、おどけたり、落ち込んだりしているのを、僕はすぐ近くで見ていた。他に誰もいなかった。僕とジョン以外は……」

「二人は親友というよりも兄弟という感じだった」と周りの人は言っている。

ジョンとポールの物語はとても興味深く、関連書籍があるとつい読んでしまう。偉大なる友情の物語であり、稀にみるサクセスストーリーである。

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