« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

2011年11月26日 (土)

バースデイ・ライブ終わりました

バースデイライブ、無事に終了しました。

「無事」とは、言い難い出来でしたが……。

最近のライブでは最もミスの多い演奏でした。

「ヒノマル」という曲の時には、完全にコードを失念してしまう時があり、冷や汗をかきました。

新ユニットの「Yuriと森の音楽隊」の方は、無事にお披露目出来ました。

こちらは評判も良く、大満足。

R0011907_800x600

まあ、そんな冷や汗もののライブでしたが、最後に二人芝居を一緒にやっていた俳優連中からのケーキと寄せ書きのプレゼントがあり、ハッピーバースデイを歌ってもらい、花束をもらいました。

「こんな風に祝ってもらえる51歳はなかなかいないよ」

と友人には言われました。

全くその通りで、皆さんに感謝、感謝。

R0011913_800x444

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月22日 (火)

バースデイ・ライブやります

ライブのお知らせです。

11月24日(木)にバースデイ・ライブをやります。

場所はお馴染みの新中野ワニズホール。

丸の内線の新中野から徒歩で6分くらいの場所です。

開場19時、開演19時30分。

基本的にワンマンライブですが、

私が現在プロデュース中の新ユニット『Yuriと森の音楽隊』が、

お披露目でパフォーマンスします。

Yuriというのはワニズホールの二人芝居でもお馴染みの女優相川由里さん。

彼女を中心とした新ユニットが二曲ほど演奏します。

乞ご期待。

詳細は以下のリンクで。

http://wanizhall.com/

Image500_map_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月18日 (金)

ロマンポルノの頃 Ⅲ

「もう女優を辞めたい」と言う彼女を説得するのに丸一日かかった。

監督、共演者、友人、そして肉親までがプロデューサーによって呼び出され、皆で説得に当たった。最後は説得というよりは、脅しに近い言葉も飛び出した。既にかなりの額の製作費が使われている。プロデューサーは必死だった。

とにかく彼女は復帰することになった。

また逃げられてはたまらない、と思ったプロデューサーは、彼女を撮影所の近くのホテルに宿泊させることにした。一人にしておくのは何かと不安だったので、共演の女優が一緒に泊まる事になった。

僕は毎日朝起きると、車でホテルまで行き、まだ眠っている彼女たちを起こして車に乗せ、撮影所に入るようになった。

やっと撮影が再開された数日後、今度は共演の女優が倒れてしまった。失踪した彼女が復帰するに当たり、一緒に説得したり、何かと気を使っているうちに、精神的に参ってしまったようだ。

今度はその子を別のホテルに入れることになり、僕は毎日二つのホテルを渡り歩いて、女優達をピックアップすることになった。

スケジュールは遅れに遅れていた。

もともとが女優たちにとってもスタッフにとっても、肉体的精神的にタフな仕事だった。

渋谷で声をかけられた少女が、ある夫婦の家の地下室に監禁されるというストーリーで、その頃、実際にアメリカのカリフォルニアで起きた事件をベースにしていた。

地下室を脱出して逃げるというシーンでは、本当の下水道で撮影が行われた。

真夜中の住宅街で、マンホールの蓋を開けて下に降りて行き、腰まで汚水に浸かって撮影は行われた。深夜からスタートしたそのシーンの撮影が終わったのは、朝日が登ってくる頃だった。少女役の女の子は、現場で号泣した。

そんな異様な雰囲気の中、役者もスタッフも必死になって作業したが、スケジュールの遅れは何ともし難く、あと数日を残すという時に、現場でスタッフ会議が開かれた。

「この後、数時間仮眠を取ってから海のロケに行き、戻って来てもう一度セットに入るのと、このままセット撮影をもう一日続けて、その後ロケに行く……どっちがいいですか?」

究極の選択である。

結果、僕たちは丸二日以上、時間にして約50時間連続でセット撮影を行う事となった。

そして、最後の海の撮影に出かけた。

皆が寝ぼけていたせいか、途中のドライブインでスタッフの一人を置き忘れたり……昼のシーンが撮りきれずに、ブルーのごみ袋をつなぎ合わせて巨大なシートを作り、それに照明を当てて海を再現したり……監督が砂浜を歩くカニの姿が撮りたいと言って、皆でカニを探したり……何だかんだと事件は起きた。

でも……とにかく……なんとか撮影は終わった。

現場でお疲れの乾杯をし、撮影所に戻って助監督室で仮眠を取り、自分の車に乗って家に向かった。あと100メートルくらいで家にたどり着くという時、僕は多分2秒くらい眠ってしまった。

車は電信柱に激突した。

タイヤは4つともバーストしていた。事故に巻き込んでしまった対向車のドライバーも含め、怪我人は出なかったが、取り調べに来た警察官は、私の顔を見て、こう言った。

「君、仕事のし過ぎだよ」

さて、数年後、この映画に出ていた女優の一人と再び仕事をする事になり、討ち入りもかねて居酒屋で飲む事になった。話題は必然的に、生涯忘れられないほどドラマチックで過酷だったこの映画の撮影の事になった。

「それにしても、失踪しちゃった彼女は今頃何やってんのかね」

何気なく言った言葉に、共演者だったその子は答えた。

「この間、連絡があって……例の軍人さんが除隊してアメリカに帰る事になって、彼女、結婚して向こうに住むってさ」

チャプリンの名台詞を思い出した。

「時は偉大なる作家である。いつでも完璧な結末を書く」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月12日 (土)

ロマンポルノの頃 Ⅱ

 

当時、僕は中古屋で20万で買ったファミリアを持っていた。

家賃月17500円の風呂なしトイレ共同に住む身としては、何とも贅沢なのだが、一年中ほとんど休むことなく仕事をしていた結果、小銭が溜まってしまい思い切って手に入れたのだ。

その車に乗って、深夜の高速を僕らは横田基地に向かって走っていた。

「彼女はきっと横田基地の中に監禁されているに違いない」

プロデューサーがそんな事を言い出したので、皆で横田基地に乗り込む事になったのだ。

乗っているのは、プロデューサーと僕と通訳代りに連れて来たサード助監督。彼は東大を出て撮影所に入社したばかりで、現場ではほとんど役立たず扱いだったが、英語が出来るという点を買われ、横田基地行きのメンバーに選ばれたのだ。

車内は重苦しい雰囲気だった。当り前である。主演女優が失踪し、撮影はストップしたままだ。もともと宣伝部にいて、この映画が初プロデュースのプロデューサーにしてみれば、死活問題だった。

そんな雰囲気を変えようとカーステレオのスイッチを入れた。

流れ出したのはイーグルスの「テイク・イット・イージー」だった。

 

横田基地には各ゲートの検問所があって、そこには日本人のスタッフがいる。

米兵と一緒か内線をして確認が取れれば、日本人も中に入れる。僕らが日本人スタッフとなんだかんだと話している間にも、次々に日本人の若い女の子が入って行く。

そういう子たちは当時、基地族とかぶらさがり族とか言われて社会現象の様になっていたが、本当に目にしたのは初めてだった。

日本人スタッフと話していても事態は解決しないので、サード助監督に内線電話をかけさせた。交渉の末、一人だけ中に入れることになった。

中に入ったプロデューサーはしかし彼女を発見することは出来なかった。諦めかけて帰ろうとしていた時、当の彼女から偶然にもその部屋に電話がかかってきた。

「何でプロデューサーが、その部屋にいるの?」

驚いた彼女は「もう女優は辞めるので、探さないでください」と伝言を残して、電話を切った。

「カノジョハ、ケイコ(仮名)ノヘヤニイルヨ。デモ、ケイコノイエ、シラナイ」

その米兵がフィリピンに発ってしまった後、手掛かりは「ケイコ」という彼女の友達らしい人物の名前だけだった。

プロデューサーはしかし諦めなかった。

大家に上手く話をして阿佐ヶ谷の彼女のアパートを開けてもらい、家探しをした結果、アドレス帳に「ケイコ」の名前を発見したのだ。

そして翌日、彼女のマネージャーと二人で「ケイコ」の部屋の前で張り込んでいると、ついに彼女の姿を見つけた。

既に2日が過ぎていた。

まるで刑事ドラマの様な捜索劇の後、失踪した主演女優は見つかったのだが、それですんなり撮影が再開したわけではない。

本当のドラマは、この後に待っていた。

つづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月11日 (金)

ロマンポルノの頃

 新宿のスタジオアルタの斜向かいの線路の前には、以前、映画の看板が立ち並んでいた。 今は看板は撤去され、すっかり様変わりした。

 大学を卒業後、にっかつ撮影所で助監督をやっていた私は、いつか自分の作った映画の看板がここにかかるのを夢見ていた。それは、随分と後になって実現するのだが、助監督時代には、もっと強烈な忘れられない思い出が、この場所にはある。

 それはある映画の撮影の最中に起きた。

Dscn0075_800x572_2


 その日、スタジオアルタの壁面の温度計は三十六度を示していた。立ち並ぶ映画看板の前にワゴン車を停め、僕らはカーセックスのシーンを撮っていた。窓にはハーフミラーのフィルムが貼ってあるので、通行人は中を見る事は出来ない。

 

突然、女優が痙攣し始めた。顔色は真っ青で、カチカチと歯を震わせている。慌てて救急車を呼んで病院に運ぶ事になった。セカンド助監督だった僕は、一緒に救急車に乗り込んだ。

病院の救急治療室の前で待っていると、しばらくして中年の看護婦が現れ、怒った様な口調でこう言った。

「この人、服は何処にあるんですか?」

 

 

 

  僕らはかなり慌てていたので、裸だった彼女にガウンだけを着せて救急車に乗せてしまったのだ。ガウンを脱がせたらその下は裸である。看護婦が驚くのも無理はなかった

僕はしどろもどろに事情を説明し、喫茶店で待機しているサード助監督に電話し、早く服を持って来い、と叫んだ。

 

 数時間後、僕は彼女のアパートにいた。その日の撮影は中止になり、知らせを聞いたプロデューサーが慌てて駆けつけていた。

 彼女の症状は過換気症候群だと医者は説明した。極度の緊張などが引き起こす症状で、女性に多いという事だった。

 その映画は彼女のデビュー作で、しかも監督は女優を徹底的にしごく事で有名だった。主演の緊張感と厳しいスケジュールによる疲労が、彼女の発作を引き起こしたのだろうか。

「今日は親戚か友達か、どこか連絡の取れる所に泊まってくれないか」とプロデューサーは言った。彼女は貧乏な劇団の研究生で、部屋の電話は止められていたのだ。彼女は姉の家に泊まると言い、ある電話番号をメモして僕らに渡した。

 

 

  さて、二日後の朝、彼女は予定の時間に現れなかった。僕らは渡された番号に電話をした。しかし、そこは彼女の姉の部屋ではなかった。なんと、米軍の横田基地であった。

 彼女の恋人は米軍兵であった。彼は、その日を最後にフィリピンに派兵されていく予定になっていた。当時、フィリピンは政情不安定な時期だった。

 彼女は恋人と最後の日々を過ごすため、横田基地の中にある彼の部屋に泊まっていたのだ。そして、恋人と過ごすうちに色々と考え込んでしまったのだろうか、その日の朝に横田基地を出た後、彼女は撮影所に現れなかった。

 

 

 

 彼女は我々の前から姿を消した。つまり、失踪したのだ。

 

 

つづく。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 2日 (水)

久しぶりにカットウする

29日にライブをやりました。

場所はお馴染みの東高円寺カットウ。

「おおいた夢色音楽祭」のグランプリ受賞後、初のライブでした。

音楽祭では、年齢のせいもあって、

ベテランのシンガーソングライターだと思われていたけど、

実際ライブハウスで唄ったのは、去年の2月が最初でした。

そして、その初体験の場所となったのが、ここ東高円寺のカットウです。

最初のライブの時は手が震えていました。

それから二年が過ぎ、今回のグランプリ受賞は……まあ上出来でしょう。

 

ライブでは様々な年齢や立場の人たちと一緒になります。

彼らが歌う唄や、ライブ後に何気なく話した事なども、

ずいぶんと刺激になりました。

その結果出来た唄もあったりします。

 

久しぶりのカットウはしかし、何だか緊張しました。

この場所は何か独特の雰囲気があります。

そんな訳で……と言い訳をしたいほど、

今回のライブは演奏はミスが多く、声も枯れていて、

上出来とは言えませんでした。

でも、私のライブ活動の原点であるカットウで、

おおいたの音楽祭の報告が出来たのは、

とても良かったと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »