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2011年8月28日 (日)

クロサワVSキューブリック

『映画ストーリーの領域と可能性はサイレント映画の構造から何かを借りる事によって、飛躍的に増すだろう……サイレント映画はトーキーよりもずっと多くのものを備えていたと思う』

キューブリック

 

『この作品(羅生門)の根本と言えば、要するに無声映画に帰ってみようと思った事ですね……トーキーになって失われた映画の美しさをもう一度見つけようという気持ちだった』

クロサワ

 

キューブリックもクロサワも何だか似た様な事を言っている。

ついでに言えばスピルバーグもアクターズスタジオ・インタビューに出た時に、

「演出が上手くいっているかどうかを判断するにはどうしたらいいですか」という学生の質問に、「テレビで映画を放送していたら、音を絞って観て下さい。それでも、その場面の意味や登場人物の感情が伝わってきたら、それはきちんと演出されているという事です」と答えている。

要するに、映画はサイレントが基本だと、この映画の巨匠たちは異口同音に言っている訳だ。

 

映画も生誕100年を過ぎ、星の数ほど製作され、映画監督も数えきれないほどいる。しかし、自分が心惹かれる映画には何か共通項がある。クロサワとキューブリックは、そんな映画を作ってくれた監督の代表的な二人だ。

彼らの作った映画は、批評家たちに失敗作と言われている物でさえ、見るに値する強力な魅力がある。

それは一言で言えば、映画的な映画だという事だ。

そして、彼らの映画を映画的にしている要素は何かというのが、私の長年のテーマだった。

ヒントは彼らの言葉に隠されていた。

つまり、映画の基本はサイレントだと言う事だ。

 

 

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